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2004/08/21(土) 柴田、女子800自で「金」=女子200背の中村は「銅」
アテネ五輪は20日、競泳女子800メートル自由形決勝を行い、柴田亜衣が8分24秒54で金メダルを獲得した。
 女子自由形では日本初、同種目ではアジア初のメダル獲得の快挙。
 北島康介の2冠に続き、日本競泳チームに3個目の金メダルをもたらした。

「大器晩成」とは、まさに柴田のことだろう。鹿屋体大進学後に急成長。競泳女子八百メートル自由形決勝でも怖いもの知らずに飛ばし、競泳の日本女子で4人目の金メダリストとなった。
 猛練習で鍛えたスタミナは最後まで衰えなかった。「まさか金メダルが取れるとは思わなかった。泳ぐ前にコーチから慌てず、焦らず、あきらめずと言われて、それを頭の中で繰り返していた」。過去にメダルさえ取れなかった女子自由形での快挙である。
 徳島・穴吹高時代に目立った成績はなかった。競争相手もなく、1人で黙々と泳ぐ日々だったが、大学に進むと環境が一変。先輩や同僚と一緒に練習して競い合い「すごく楽しかった」。2年前のパンパシフィック選手権で初めて日本代表に。それでも、得意種目は五輪にはない千五百メートルだった。
 昨年10月、アテネを真剣に目指すことを決めた。指導する田中孝夫コーチは、柴田に言った。「悪い結果になった場合は、選手生命が終わるかもしれない。おれに命を預けろ」。柴田は言った。
「命、預けます」−。二人三脚の特訓が始まった。
 泳いでいる間、呼吸制限をする練習はきつい。今年3月の米国での高地合宿では、普段の練習と変わらない距離を泳いだ。四百メートルと八百メートルに対応するため、徹底的なスピード練習。176センチの大型スイマーは、選手生命を懸けて取り組んだ。
 今大会の四百メートルでは自己ベストで5位に入り、さらに自信をつけた。遅れてきた大器は、アテネで金に輝く「シンデレラ」になった。

また、女子二百メートル背泳ぎ決勝が20日行われ、中村礼子(ヨコハマSC、日体大)は日本新の2分9秒88でドイツの選手と同タイムで銅メダルを獲得した。


この日柔道でも快挙が続いた。柔道男子100キロ超級の鈴木桂治(平成管財)と女子78キロ超級の塚田真希(綜合警備保障)がともに金メダルを獲得した。これで、日本勢の金メダルは今大会12個となり、1984年ロサンゼルス大会以来の2ケタとなった。
 日本勢の金メダル獲得は7日連続となり、柔道は8個目。 

2004/08/20(金) 阿武悲願の金! 三度目の正直だ/柔道
公言していた三度目の正直を果たした。過去2大会連続初戦負けだった女子柔道78キロ級の阿武(あんの)教子(28=警視庁)が悲願の金メダルを獲得した。世界選手権4連覇中の女王は五輪にすむ魔物に打ち勝ち、決勝で劉霞(中国)に袖釣り込み腰で1本勝ちした。エース井上康生(26=綜合警備保障)の敗退に沈んだ日本柔道だが、女子は今大会4個目の金メダルとなった。
 願い続けた夢がかなった。阿武がついに金メダルを獲得した。決勝で1本勝ちを決めた直後、右拳を突き上げた。96年アトランタ、00年シドニーと初戦で敗退。女子史上3人目の世界選手権4連覇を果たした女王にとって、五輪は悪夢でしかなかった。その屈辱を、口癖になった「三度目の正直」で晴らした。
 乱れた髪をピンクのゴムできちんと縛り直して最後の礼をした。「2度の初戦敗退でどうなるかと思ったが、優勝できてよかった。厳しい時期があったので今がある」と言って、こみ上げる涙をぬぐった。
 大本命だった男子のエース井上が、まさかの4回戦敗退。その衝撃を女子重量級の看板が払しょくした。初戦の2回戦。過去2度の悪夢に顔がこわばっていた。「1度も五輪で勝っていなかったので本当に緊張した」。その重圧を「同じ過ちは繰り返さない」という覚悟が上回った。ピント(ベネズエラ)を一本背負いから崩れけさ固めで仕留めた。この1本勝ちで完全に顔色が変わり、貫録十分に勝ち上がった。準決勝ではシドニー銀のルブラン(フランス)と延長戦(ゴールデンスコア)に突入も、残り19秒に小内刈りを決めた。
 中国の劉との決勝。身長で16センチも高い178センチの相手を試合開始から攻めた。消極的姿勢で相手が2つ目の指導を受けて精神的に優位に立つと残り22秒、袖釣り込み腰で鮮やかな1本勝ち。「決勝は冷静でした。担ぎ技で1本取れて、いい締めになりました」。
 過去2度の五輪は過剰な期待に押しつぶされた。00年シドニー大会では、裏口から出て会場を後にした。日本女子の吉村監督から「世界王者なんだから自分ではい上がれ」と突き放され、知人の前でボロボロ涙を流したこともある。引退も考えた。だが、シドニー大会後の01年世界選手権で3連覇を果たしたのをきっかけに、少しずつ自信を取り戻した。今年の選抜体重別Vで五輪代表を決めた後は「五輪で2回とも初戦負けは、なかなかできない経験」と笑い飛ばせるまでになり、これまで1度も見なかったアトランタ、シドニー大会のビデオも取り寄せた。2つの敗戦を受け入れて今大会に臨んだ。
 これで日本女子柔道の金メダルは4つ目になった。女子初の五輪重量級制覇に吉村監督は「(谷)亮子と一緒に2本柱で頑張ってきた。シドニーからよくここまで持ってきた」と手放しでたたえた。10代から日本女子重量級の屋台骨を支えてきた阿武も28歳。五輪発祥の地アテネで夢を実現。表彰台で笑みがはじけた。やっと五輪コンプレックスから解き放たれた。

また、今大会金メダルの最有力候補だった100キロ級の井上康生(26)=綜合警備保障=が、4回戦でファンデルヘースト(オランダ)に背負い投げをくらい一本負け。外国人選手には2001年3月の団体戦で行ったミレニアムカップ(ハンガリー)でコバチ(ハンガリー)に内またで一本負けして以来3年ぶりだが、個人戦では初の屈辱となった。敗者復活2回戦でも大内返しで敗れ、大本命がV2を逃した。

2004/08/19(木) 北島、平泳ぎで2冠・柔道、上野も金
日本競泳界のエース北島康介(21=日体大)が平泳ぎの史上最強スイマーになった。100メートルに続いて200メートルでも金メダルを獲得した。最初から1度もトップを譲らず、2分9秒44で圧勝した。五輪での平泳ぎの2種目制覇は男子では前回シドニー大会のフィオラバンティ(イタリア)に次ぎ2人目。世界選手権と同時2種目制覇の「4冠」は史上初の快挙となった。また、日本選手個人の五輪1大会で2つの金メダルは、ロサンゼルス五輪体操の具志堅幸司以来20年ぶりだ。
 ほえることもない。叫ぶこともない。まるで勝つことが当然だったと言うように、北島は軽く右手の拳を握った。100メートルに続く2つ目の金メダルを、余裕たっぷりに手にした。「面白くなかったですか?  自分が冷静なのが分かった。周りをじっくり見る余裕もあった」。号泣した100メートルの会見と違って、どこまでも落ち着いていた。それでも2冠は快挙。「人生の中で一番ハッピー」と喜んだ。
 スタートから終始リードを保つ横綱相撲だった。1ストロークが最高2・5メートルもある大きな泳ぎで、水を切り裂いていく。世界記録保持者ハンセン(米国)の追随を許さない。予選、準決勝1位で銀メダルの15歳ジュルタ(ハンガリー)に1秒36、1メートル以上の大差をつける圧勝だった。
 予選は2位、準決勝は3位。だが、焦りはなかった。レース前のアップから、勝利を確信できるようないい泳ぎができた。「プレッシャーをかけられたけど、完ぺきな泳ぎができた」。ライバルたちとの争いを楽しむ余裕さえあった。
 100メートルで金メダルを獲得した後、米国側から攻撃を受けた。「泳法違反疑惑」。50メートルのターン直後、禁止されているバタフライのようなドルフィンキックをしたというもの。米国男子背泳ぎ代表のピアソルが騒ぎ立てたことから始まった。米国の新聞、テレビが「ビッグ・スキャンダル」と詳しく報じた。
 審判員からクレームはついてない。問題はない。米国チームは正式抗議こそしなかったが、ビデオを審判団に突き付けるなど行動を起こした。平井伯昌コーチ(41)は「あいつらは毎回やるんですよ。これも戦術。やはり五輪はある意味、国と国との武器のない戦争。あの手この手できますよ。悪いことをしてるわけじゃない。気にせずやりたい」と苦々しく話した。昨年の世界陸上の男子200メートル決勝で末続が、スタート前に両足スタートにクレームをつけられた。日本人、アジア人は世界からバッシングを受ける傾向にある。
 だからこそ北島は、日本人としてのプライドにかけても負けるわけにはいかなかった。「そう言われたからには絶対負けられねぇ。逆にモチベーションを上げさせてもらった。これで何も文句は言われねぇだろ」。どこまでも冷静だった北島が、この時だけ東京・荒川区生まれらしいべらんめえ口調になった。米国の揺さぶり作戦にも動じることなく2つ目の金メダルを取ってみせた。
 平泳ぎの五輪2種目制覇は史上2人目。世界選手権と同時2冠の「4冠」は史上初の快挙だ。すべてを成し遂げた男は次、何を目標にしていくのか。「五輪金メダルが最終目標じゃない。水泳選手である限り、毎年毎年、最高の泳ぎを見せられるようにしていきたい」。世界記録、4年後の北京。史上最強を証明したアテネから、北島の闘いがまた始まる。



柔道でも女子70キロ級の上野雅恵(三井住友海上)が金メダルに輝き、男子90キロ級の泉浩(明大)は銀メダル。競泳女子200メートルバタフライの中西悠子(近大職)は銅メダルを獲得した。
 5日連続となった日本の金メダル数は、これで8個となった。柔道の一大会金メダル5個は史上最多。

2004/08/18(水) <五輪野球>日本、強敵キューバに6―3 3戦全勝
アテネ五輪は第5日の17日、野球日本代表は1次リーグ3試合目で優勝争いのライバル、キューバと対戦。九回途中まで好投した先発・松坂(西武)を打線が3本塁打などでもり立て、6―3で快勝した。日本がキューバに勝ったのは、五輪4大会6戦目で初めて。日本はこれで通算3勝、カナダとともに首位に立っている。
 【戦評】日本が松坂の好投と一発攻勢で快勝した。二回2死一塁から和田一が左越えに先制2ラン。四回は城島、中村の連続ソロで、キューバのエース・オデリンをKOした。七回には、藤本の三塁へのセーフティーバントなどで無死一、三塁とし、福留の左犠飛で突き放した。先発の松坂は四回に打球を右腕に受けるアクシデントがあったものの、八回までは得点を許さず、最後は石井が締めた。
 ▼中畑清ヘッドコーチ 松坂の投球に尽きる。あの投球が攻撃の流れをつくった。
 ■風を味方にアーチ攻勢
 二回2死一塁、沈む球をすくい上げた和田一の打球はグングン伸び、左翼スタンドに消えた。3試合目で出た五輪初ヒットが貴重な先制アーチ。「風にも乗った」と和田一。四回の城島、中村の連続弾も左翼席へ。日本は右翼から左翼に吹く風を味方につけた。
 試合前のミーティングでは、前日まで左から右方向に吹き荒れていた風対策が話し合われた。だが、実際にグラウンドに立ってみると、右打者には有利な、左方向への追い風に変わっていた。初戦のイタリア戦で、レフトへの大飛球を押し戻された和田一は「打球が飛ばずに悩んでいた部分もあるけど、これですっきりする」と開き直った。
 守りでも風を利用した。「ミーティングでは右打者の内角を突くつもりだったけど、逆に内角はボール球にした」と城島。内角に速球を見せて、外角へスライダーを落とすパターンが、振り回すキューバ打線には効果的だった。引っ張る打球はファウルになり、松坂の好投を引き出す好リードにつながった。
 アテネ入りした際、中畑ヘッドコーチは「初めての土地では、自然を味方にすることも勝つ条件」と話していた。最大のライバル、キューバとの試合で初めて吹いた日本への追い風。ツキも回ってきたのかもしれない。【百留康隆】
 ■谷亮子選手 夫の佳知選手を応援
 アテネ五輪柔道女子48キロ級で2連覇を達成した谷亮子選手(28)が17日、夫の野球代表、佳知選手(31)が出場したキューバ戦を観戦した。自分の試合の応援に来てくれたことへのお返しで「そろって五輪に出場したうえに、お互いに応援できてジーンときた」と笑顔で話した。
 女子57キロ級代表の日下部基栄選手らとともにバックネット裏に陣取った。今回が4度目の五輪で、ほかの競技を観戦したのは初めてという。四回に佳知選手がヒットを放つと拍手をして喜び、「夫は日本にいる時もいいのですが、日の丸(のユニホームを)つけても決まっている。時間があえば毎日でも応援に来たい」とのろけた。
 試合は日本が6―3で快勝。妻の応援について、佳知選手は「今はチームが一丸となって戦っている。また明日がありますから」と話すのにとどまった。

2004/08/17(火) <巨人>工藤が通算200勝達成 最年長記録
プロ野球、巨人の工藤公康投手(41)が17日、東京ドームで行われたヤクルト20回戦で今季9勝目を挙げ、通算200勝を達成した。92年7月の北別府学投手(広島)以来、12年ぶり史上23人目。プロ23年目、41歳3カ月での達成は最年長記録となった。これまでの最年長は若林忠志(阪神=達成時)の39歳7カ月。また年間20勝経験のない投手の200勝は初めてで、最多勝経験のない投手としては梶本隆夫(阪急)以来2人目。
 工藤のプロ初登板は西武時代の82年4月10日の阪急1回戦(西武)。初勝利は同8月31日の日本ハム9回戦(西武)。
 工藤は名古屋電気高(現愛工大名電)3年の81年夏の甲子園に出場し、長崎西(長崎)戦で無安打無得点試合を達成。同年、ドラフト6位で西武に入団し、86、87年の2年連続で日本シリーズ最高殊勲選手賞(MVP)に輝くなど西武の黄金時代をエース左腕として支えた。95年にダイエーに移籍。99年のダイエー初優勝と初の日本一に貢献した。
 99年オフに巨人・長嶋茂雄監督(当時)に「男の花道を飾ってほしい」と請われて移籍。1年目の00年、巨人のリーグ制覇を支え、ダイエーとの日本シリーズでは、2チームを股にかけて2年連続日本一を味わった。
 4日のヤクルト戦(神宮)で通算199勝目を挙げ、記録に王手をかけていた。
 主なタイトルは最優秀選手2回、最優秀防御率4回、ベストナイン3回、ゴールデングラブ3回。所属した3チームで計14度のリーグ優勝、11度の日本一を経験した。日本シリーズでは巨人・堀内恒夫(現巨人監督)が持つ27試合の最多登板記録に次ぐ26試合(現役最多)をマーク。また、三振奪取数はプロ歴代8位で、日本シリーズ通算最多奪三振記録(102個)を持つ。176センチ、80キロ。左投げ左打ち。通算成績は200勝116敗3セーブ。球界最年長選手。
 ▽巨人・工藤 (九回の声援は)心に響いて勇気になった。前回はふがいない投球だったので、きょうは絶対東京ドームで決める、と考えていた。(記録のことを)いろいろ言われて眠れないこともあったが、チームのみんなが頑張れと励ましてくれた。本塁打は振ったら当たっただけ。マウンドに上がったときから足が震えたが、ファンの声援のおかげで200勝が達成できた。
 ▽中日・川相 巨人時代は工藤さんが投手最年長で僕が野手最年長だった。200勝は常に体調管理とトレーニングを怠らなかった結果だと思う。これからも若手の見本として1年でも長くプレーしてほしい。
 ▽巨人・清原 (西武)入団当初から工藤さんには、いろいろ面倒をみてもらいました。200勝のうち、150勝は同じチームで一緒にやっていますが、200勝の時に同じグラウンドに立っていないのはとても残念だけど、まだまだ通過点ですから、一緒に頑張っていきたいです。
 ▽巨人・工藤の妻、雅子さん 昨日も家で、清原選手や高橋由伸選手、上原選手が帰ってくるまで何とかしなければいけない、ということばかり話していて、200勝の話など全くしていなかったんです。私が『お父ちゃんがホームランを打つしかないね』と言っていたら、今日、本当に打ってしまって……。実は、今日初めてまともに野球中継を見たんです。ホームランを打ったときには涙が止まりませんでした。
 ◇最年長記録支えた「工藤チーム」
 プロ第1号本塁打も放ち通算200勝を達成した巨人の工藤公康投手。「(記録のことを)いろいろ言われて眠れないこともあった」と振り返る41歳の左腕。衰えを知らぬその肉体や精神で最年長記録による偉業を達成したのは、自力で築き上げたスポーツ医学のバックアップ体制だった。
 92年から専属のフィジカルトレーナーを務める筑波大助教授の白木仁さんとの出会いが、工藤投手の意識を変えた。科学的トレーニングを指導する白木さんに触発され、体調維持や管理を独学で学ぶように。93年からは運動機能障害の治療・リハビリなどで著名な久恒病院(福岡県志免町)の原正史院長が肩のケアを担当。いわば「工藤チーム」とも言える強力な支援体制が完成した。
 原院長は年数回のメディカルチェックを欠かさず、肩の養生のためにオフの数週間は入院させてきた。原院長は「肩やひじの筋肉は、31歳の時のデータと同程度の数値が今でも出る。45、46歳ぐらいまで一線で活躍してほしい」と期待する。
 「長寿」のもう一つの理由として、白木さんは旺盛な探究心を挙げる。プロ23年目の今年になっても、身体的に鍛え方が不足していると思える個所に必要なトレーニングを加えたりするからだ。新しく覚えたフォークを実戦で使うなど、どん欲さもある。白木さんは「知的、肉体的、精神的に『鉄人』と言ってもいい。野球に対する深い探究心に、私も心を動かされてきた」と尊敬のまなざしを向ける。
 「わんぱく小僧」と言われた20代のころ、肩は「消耗品」との考えから投げ込みを嫌ったが、30歳前後から「肩は消耗品じゃない」と公言するように変化した。西武時代の同僚、石毛宏典さん(47)は「野球人として脱皮したんだなと感心した」と振り返る。
 ○…工藤は試合後、喜びの会見。「最高です。それしか出てこないな」と口を開き、記録達成に王手をかけてからは「早く200勝してすっきりしたいとの思いが強く、空回りしていた」と反省の言葉を並べるばかり。「ウイニングボールはどうしますか」との質問に「家に持って帰って、家族に……」と声を詰まらせる場面もあった。
 西武に入団した時には「スピードも打球の速さも違った。やばい、と思った。正直、ここまでやってこれるとは思っていなかった」と振り返る。「僕の野球塾」と題したホームページを開くなど野球少年への思い入れが強く、「小さな体でも(プロで)出来ると証明出来たと思う。たとえ身長がなくてもあきらめないでほしい」とメッセージを送った。

2004/08/16(月) 北島、男子100m平泳ぎで金メダル柔道 男子・内柴が金、女子・横沢は銀メダル獲得
アテネ五輪の競泳は15日、男子100メートル平泳ぎ決勝を行い、北島康介が1分0秒08で優勝、金メダルを獲得した。
 ライバルのブレンダン・ハンセン(米国)は0秒17差の2位に終わり、誕生日を勝利で飾ることはできなかった。
 北島は「ハンセンとの一騎打ちになるのは分かっていたが、壁をタッチした瞬間、勝ったのを確信した」と喜びを語った。
 男子競泳の金メダルは、1988年ソウル五輪の鈴木大地以来。
またアテネ五輪第3日の15日、柔道男子66キロ級の内柴正人(旭化成)が初の金メダルを獲得した。柔道の金メダルは前日の谷亮子(トヨタ自動車)、野村忠宏(ミキハウス)と合わせ通算3個となった。
 内柴は五輪初出場ながら決勝まで終始落ち着いた試合運びで切れ味の鋭い柔道を展開。決勝ではヨゼフ・クランツ(スロバキア)を一本勝ちで破り頂点に立った。女子52キロ級は、昨年の世界選手権3位の横沢由貴(三井住友海上)が決勝で敗れたが、準決勝ではポイントでリードされた終了間際に逆転の袖釣り込み腰で一本勝ちを決めるなど堂々の銀メダル。

2004/08/15(日) 長嶋ジャパン、好発進=「雑草魂」、聖地の熱投−頂点目指す〔五輪・野球〕
指揮官不在の中、長嶋ジャパンが金メダルに向かって白星発進した。15日、野球予選リーグの初戦で、日本はイタリアを撃破。先発の上原浩治投手(29)は持ち前の「雑草魂」で、力投した。「日の丸をアテネの空に」。病に倒れ、リハビリを続ける長嶋茂雄監督(68)の言葉を胸に、オールプロの選手たちが全力で戦った。
 強い日差しの中、先発のマウンドに立ったのは巨人のエース、上原選手だった。背番号は、巨人と同じ「19」。浪人した19歳の1年が人生で最も苦しかったことから、日本代表でもこの数字にこだわった。
 「勝って当然」という厳しいプレッシャーの中、先頭打者をいきなり三振。その後も炎天下を、顔の汗を腕でぬぐいながら6回まで投げ抜き、無得点に抑えると、帽子を取って満足そうに両手を広げ、ベンチに戻った。
 エリート選手とは対照的な野球人生だった。中学に野球部がなかった。高校では控え投手。スーパーでアルバイトもした。浪人を経て、大阪体育大に。教員免許も取った。
 1998年、巨人に入団しエースに。長嶋監督がアテネ五輪の日本チームの監督に就任すると、昨年11月、五輪出場が懸かったアジア予選でチームに招集された。大事な初戦で中国相手に好投し、11個の三振を奪った。
 その長嶋監督は3月に脳梗塞(こうそく)で倒れ、リハビリを続けている。栄光の背番号「3」のユニホームは、日本のベンチに置かれた。
 金メダルまであと8試合。「中継ぎでも抑えでも先発でも、行ってくれと言われた場面で投げるのが仕事」と話していた上原選手。一発勝負の大舞台で実力を発揮する右腕が、長嶋監督の悲願達成を目指す。

2004/08/14(土) <五輪柔道>野村3連覇、谷連覇 日本夏季「金」100個
アテネ五輪は第2日の14日から本格的に競技が始まり、柔道で女子の谷亮子(トヨタ自動車)が連覇、男子の野村忠宏(ミキハウス)が3連覇の快挙を達成した。4度目の五輪出場となる女子48キロ級の谷は決勝でフレデリク・ジョシネ(フランス)に優勢勝ちし、シドニー五輪(00年)に続き2大会連続の金メダルを手にした。日本の女子選手が五輪で2個の金メダルを獲得したのは史上初。男子60キロ級の野村も決勝でネストル・ヘルギアニ(グルジア)に優勢勝ちし、アトランタ(96年)、シドニーに続く金メダル。史上初の柔道3連覇を達成し、日本人では初めての個人同一種目3連覇を成し遂げた。野村の優勝で、日本の夏季五輪通算金メダル獲得数はちょうど100個となった。
 ▽野村忠宏 決勝ではなかなか技が出なかったが、試合をしていて、自分の体に力を感じた。最高の柔道ができた。
 ▽谷亮子 シドニーの時より何倍もうれしい。足は7割ぐらいに回復していた。痛くても畳に立とうと決めていた。田村でも、谷でも世界一になり最高です。
 ◇五輪の聖地・アテネで3連覇の金字塔…野村忠宏
 野村はやはり、「オリンピックの申し子」だった。
 初戦の2回戦から野村家直伝の宝刀、背負い投げを連発。決勝では腰を引く相手から一本こそ奪えなかったが、内容的には完勝。「試合をしていて、自分の体に力を感じた。最高の柔道ができた」と野村。厳しい減量が伴い、1秒たりとも油断できない最軽量の60キロ級では不可能とされた3連覇を、日本人夏季五輪100個目の金メダルで飾ってみせた。
 シドニー五輪後の01年夏、柔道から離れるために米サンフランシスコに渡った。体と心を酷使し続けたことで、畳に上がれなくなっていた。海を眺め、テニスに興じたが、半年もしないうちに勝負師としての思いがうずき始めた。「誰もやったことのない五輪3連覇を狙うために戻ってきた」と宣言し、02年秋の講道館杯で復帰。ところが、準決勝と3位決定戦で「生まれて初めて」という1日2回の一本負け。イメージに体がついていかない。限界説がささやかれた。
 敗れた日、故郷の奈良県天理市内の居酒屋で、心から慕う人物と酒をくみかわした。その時に言われた言葉を、よく覚えている。「お前が勝ったらむかつくけど、負けても気分悪いなあ」。天理大の先輩でシドニー五輪決勝で「誤審」の末に優勝を逃した篠原信一(現天理大監督)だった。
 その篠原は、花道を飾ろうとした03年4月の全日本選手権で散った。金メダルを手にできないまま一線を退いた篠原は、復活を期す野村に言った。「ヒロ、おれに金メダルを一つよこせ」。照れ屋の篠原らしいエール。野村は笑いながらも、心に熱いものがほとばしるのを感じた。
 「これが最後のつもりで臨む。だから、しょうもない柔道は絶対にしない」と誓った天才・野村のオリンピックは公約通り、前人未到の3連覇で完結した。【高橋秀明】
 ■略歴 野村忠宏 世界選手権は2度出場し、97年に優勝。叔父の豊和氏は72年ミュンヘン五輪柔道の軽中量級金メダリスト。01年5月に葉子さんと結婚。得意は右背負い投げ。奈良教大大学院出。164センチ。29歳。奈良県出身。
 ◇強い心が見る者の心を揺り動かす…谷亮子
 けがで谷は左足の自由を奪われていた。決勝の相手は身長が14センチ高く、パワーで上回るジョシネ。ポイントでリードしていた残り14秒、決定的な大内刈りで技あり。だが、痛みが走ったであろう左の軸足はぶれない。連覇の瞬間、天を仰ぎ、両手で顔を覆った。
 アテネに入る27日前、けいこ中に左足を痛めるアクシデント。歩くことすらできない。完治まで2カ月。「田村亮子で金、谷亮子でも金」と公言してきた五輪連覇は実現できないのか――。
 神はまたしても彼女に試練を与えた。
 92年バルセロナ五輪で銀メダルの後、96年アトランタ五輪でも決勝でケー・スンヒ(北朝鮮)に敗れた。「最高で金、最低でも金」と言って臨んだ00年シドニー五輪で宿願の金メダル。物語は完結したかに見えた。谷自身も現役続行に意味を見出せない時期があったという。
 道しるべとなったのが、夫でプロ野球・オリックスの谷佳知外野手だった。「谷さんはプロとして毎日戦っている。私も1回きりの勝負を頑張って、応援してくれる人に喜んでもらいたい」。人の夢を背負うことに新しい生きがいを見つけた。
 けがの後は1カ月間、姿を消した。アテネへ旅立つ前には「けがを理由にオリンピックをあきらめられたら、どんなに楽だったろうと思った」と告白。孤独な戦いの中で追い詰められていた。それでも、「私は小さい時から柔道をやっている。体に染み付いている」と己を信じた。
 準決勝までオール一本勝ち。決勝も最後まで攻め続けた。彼女ほどの反射神経と試合運びのうまさがあれば、残り1分を切った段階で逃げ切る柔道に切り替えられたはずだ。ましてやけがで「7割の状態」だったのだから。小さな体に宿った強い心が、見る者の心を揺り動かした。【高橋秀明】
 ■略歴 谷 亮子 旧姓田村。92年バルセロナ、96年アトランタ五輪はともに銀メダル。世界選手権は93年から6連覇中。昨年12月にプロ野球オリックスの谷佳知外野手と結婚した。愛称は「ヤワラちゃん」。得意は右背負い投げ。146センチ。28歳。福岡県出身。

2004/08/13(金) 巨人・渡辺オーナーが退任 スカウトの違反活動に「襟を正したい」
巨人渡辺恒雄オーナー(78=読売新聞グループ本社会長)が13日、電撃辞任した。この日、都内のホテルで読売新聞東京本社・滝鼻卓雄社長(65)が緊急会見。今秋ドラフトで自由獲得枠での入団が確実視されていた一場靖弘投手(明大4年=桐生一)に対し、昨年12月から7月上旬までに約200万円を渡していたことを公表。日本学生野球憲章に抵触する違反行為を重くみた同グループはこの日、読売巨人軍の臨時株主総会、取締役会を開き土井誠球団社長(61)、三山秀昭球団代表(57)らフロント首脳4人の解任を決定した。後任オーナーには滝鼻氏が就任した。1リーグ制移行のキーマンの辞任により、球界再編は新たな局面を迎える。
 球団ぐるみの“裏金疑惑”が、ついに明らかになった。この日午後4時、都内のホテルで読売新聞滝鼻社長が、単独で会見に臨んだ。一場との間で金銭の授受を明らかにし、それによる球団幹部4人を解任するという、大粛清人事を発表した。
 同社長によると昨年12月、プロ数球団が獲得を狙う一場に関して、吉田編成部長が獲得に有利になるよう三山球団代表に相談を持ちかけた。同代表は土井社長と相談し交通代、食事代などの名目で現金を渡すことを決めた。その額は合計約200万円にものぼった。この事実が最近になって同グループ内に外部から伝わり、球団幹部から事実関係を調査し、不正を認めたという。
 一場からはこの日、全額返済されたが、滝鼻社長は会見で「一場選手本人、ご両親に対して、このような事態に巻き込んで大変申し訳ありませんでした、と謝罪をいたしました。また明治大学野球部に対してもおわびしました」と謝罪。根来コミッショナー、セ・リーグに経過を報告した上で、プロ入りを目指す一場の今後への配慮を求めたという。辞任した渡辺オーナーは球団を通じて謝罪のコメントを発表した。
 ドラフトは93年秋から巨人主導のもと逆指名制度、01年秋からは自由獲得枠が導入された。だが社会人、大学生の一部有力選手の獲得をめぐり、資金豊富な球団優位となるマネーゲームがぼっ発。以来、巨人は有力選手を数多く獲得するに至った。その獲得競争の中で、契約金の上限(現在は1億円)をはるかに上回る「裏金」の存在がまことしやかにささやかれていた。
 新人選手獲得の自由競争をうたった巨人が、自ら失態を演じたことは「自業自得」というほかない。「裏金」の存在に関し、これが慣例化していたのではないか、とされることについて滝鼻社長は「ない。他の件については聞いていない」と否定した。
 球界再編の渦中で主導権を握る渡辺オーナーだが、今後オーナー会議など表舞台からは身を引く。来月8日のオーナー会議には滝鼻新オーナーが出席する。同新オーナーは「1リーグ、2リーグについて私は今、どっちがいいとか考えていない」と具体的な明言を避けた。表舞台から形式上は去った渡辺オーナーが、今後、水面下で動き、その影響力を発揮する可能性は否定できない。だが、球界全体の自浄能力の欠如を浮かび上がらせる今回の問題発覚は、大スキャンダルとして球界に汚点を残したことは間違いない。

なぜ巨人が不正事実を自ら明かしたのか。全容が明らかになるにはある程度の時間を要するだろう。だが、この日、球団から配布された渡辺オーナーのコメントの中に謎解きのヒントと思われるくだりがある。

 「野球ファンのご理解を得た上で、新たな決意を持って真摯に野球の発展に力を注いでいく所存です」。渡辺オーナーが院政を敷くことを示唆したものと解釈できる。オーナー会議議長という“公職”からも離れ、球界の表舞台から身を引くことで、身動きを軽くする狙いがあるものとみられる。

 だが、その一方には1リーグ制推進の中心人物として、ファンの批判を浴びている現実がある。7月27日に東京ドームで行われた巨人―広島戦の際にはドーム爆破の脅迫電話が入り、警視庁が捜査に乗り出す事態となった。「プロ野球ファンなら読売新聞を買うのはやめよう」など、親会社の新聞不買運動を呼びかけるインターネットの掲示板も登場。また、巨人の球団本部には白い粉の入った封筒を送りつけられたことなどから「オレは狙われているんだ」と何度も漏らしていた。こうした“身の危険”も辞任の要因になった、と推察される。

 会見の席上、滝鼻新オーナーは渡辺オーナーの今後について「(読売新聞社の)主筆だから、再編問題などについていろんなところで発言する機会はある」と明言した。10球団1リーグ制の実現に向け、水面下で球界から政財界にまで影響力を行使していく意向とみられるが、先行きは不透明だ。

2004/08/12(木) 大魔神・佐々木投手引退の意向 突然の決断関係者ら驚き
プロ野球横浜の佐々木主浩投手(36)=東北福祉大出=が引退の意向を球団に伝えたことが11日、明らかになった。8日のヤクルト20回戦(横浜球場)で9回に屈辱の3連続被弾。3試合連続の救援失敗に、かつて米大リーグでも活躍した「大魔神」の面影はなかった。高校、大学と東北の球界で育ち、日本のセーブ王にまで駆け上がっていった大投手の決断に、関係者は一様に驚いた。

 引退の意向について、佐々木投手は宮城県富谷町の実家にも知らせなかったようだ。母信子さん(63)らは「えっ、まったく聞いていない。きょう(11日)別件で電話連絡しようとしたが、通じない」と話した。
 「びっくりしている。引退するのなら、私のところに連絡をくれるはずなのだが…」。宮城・東北高時代に佐々木投手を指導した竹田利秋さん(63)=国学院大野球部監督=は、引退の知らせに戸惑うばかり。

 竹田さんは3連続被弾の翌9日、佐々木投手と横浜市内でお茶など飲みながら5時間以上話し込んだという。
 佐々木投手「打たれちゃいました」
 竹田さん「投球フォームが崩れてきている」
 佐々木投手「やっぱり…」
 この時、教え子の表情は「自分でも分かっていることを言い当てられたような感じだった」(竹田さん)という。
 体力。精神力。どんなピンチにも打ち勝ってきた大魔神が揺れ動いていた様子がうかがえる。

 かつてのチームメートはショックを隠しきれない。東北福祉大で佐々木投手の1年先輩で、現在福祉大野球部の監督を務める山路哲生さん(38)。「えっ、本当ですか…」と絶句。シーズン中でもあり、「事態をうまくのみ込めない。信じられない。周囲から期待を受ける中で、年齢的なことなど、本人にしか分からない葛藤(かっとう)があったのだと思う」と思いやった。
 仙台六大学野球連盟の事務局長、菅本昭夫さん(61)は「米国に渡った時点で肩を大分使って無理をしたのではないか。肩のことを考えれば、ご苦労さまと言いたい」とねぎらった。

8月絵日記の続き


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