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2004/12/18(土)
高松宮妃喜久子さま死去 紀宮さま婚約内定正式発表は延期
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天皇陛下のおばにあたり、がん征圧事業などに力を注いだ高松宮妃喜久子(きくこ)さまが18日午前4時24分、敗血症のため、入院先の聖路加国際病院(東京都中央区)で亡くなられた。92歳だった。宮内庁は紀宮さま(35)と都職員の黒田慶樹さん(39)の婚約内定の正式発表を18日午前に予定していたが、急きょ延期した。 遺体は午前7時37分に港区高輪1の14の1の宮邸に運ばれ、皇太子ご夫妻や紀宮さまらが弔問に訪れたのに続き、午前10時前、天皇、皇后両陛下が訪れた。 宮内庁は葬儀の日取りの検討を始めたが、先例に従い、本葬にあたる「斂葬(れんそう)の儀」は26日にも、文京区の豊島岡墓地で行う。墓所は、夫の故高松宮宣仁(のぶひと)さまが眠る同墓地が予定されている。ご夫妻に子供はなく、高松宮家は途絶えることになる。 皇族の死去は02年11月の高円宮憲仁さま以来。喜久子さまの死去で、明治生まれの皇族はいなくなった。 喜久子さまは99年8月に左大腿(だいたい)骨を骨折。同病院で手術を受けたが、十二指腸かいようを併発するなどし一時は重症に。00年1月に退院したが、宮邸で療養生活を送り、その後も細菌感染症による発熱や大腿ヘルニアなどで入退院や手術を繰り返した。 20年来の主治医で御用掛を務めていた山口建・静岡県立静岡がんセンター総長や、聖路加国際病院の蝶名林直彦呼吸器内科医長らは同日午前、宮内庁で会見した。山口総長らによると、乳がんの疑いで今年2月に同病院で手術を受けた際、病理検査でがんが確認され、喜久子さまががん征圧に尽力してきた経緯を踏まえ告知された。喜久子さまは冷静に受け止めたという。 最近は20歳の時に患った結核の影響で、呼吸不全が慢性化していたという。10月に腎透析のための手術を受け、人工透析を開始。容体が安定したため、一般病棟に移ったが、今月に入り腸炎も進行、敗血症の症状で17日深夜に容体が急変。18日午前3時過ぎに心拍停止状態になり、1時間以上、心臓マッサージを施したが、意識は戻らないまま亡くなった。死去の際には宮邸職員や2人の実妹が立ち会った。
◇略歴 高松宮妃喜久子さま
1911(明治44)年12月26日、徳川幕府十五代将軍徳川慶喜の七男慶久氏(故人)の二女として誕生。女子学習院卒業後の30年2月4日、18歳で大正天皇の三男高松宮さまと結婚した。33年に皇族・有栖川宮家出身の母実枝子さんを結腸がんで亡くし、68年に財団法人「高松宮妃癌(がん)研究基金」を創設。名誉総裁を務めながら、がん撲滅を強く訴えた。 87年に高松宮さまが肺がんで亡くなってからは、ハンセン病患者の救済を目指す藤楓協会(当時)の総裁や恩賜財団済生会総裁を引き継ぎ、後に名誉総裁となった。高松宮さまの死去後に日記が見つかって以来、その編集に最も力を注ぎ、日記は95年6月に出版された。近年は闘病生活が続いたが、皇太子ご夫妻に長女敬宮(としのみや)愛子さまが誕生した際には、女性天皇について「不自然ではない」との文章を雑誌に寄せるなど積極的発言も続けた。
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