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2004/09/04(土)
ケーシキ
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個人指導のバイトで教えていて、解答として内容に問題がなくても、形式的に気になることがあると何故だか必ず指摘せずにはいられない。例えば数学では本質的に言って「パラメタ」と「変数」の違いはないし、どのような文字を用いても問題はない。だけどこの前、普通は``k''と置くような所で``x''という文字を使っている生徒がいて、中身は全く問題がなかったのでスルーしようと一瞬思ったのだが、やはり説明のつかない不安を感じて、コメントしておいた。
自分でも、そんな事はどうでも良い事だと、さっさと進めて理解が至らない所に時間を割くべきだと感じつつ、どうしても不安を感じ、生徒も細かい所をいちいち指摘されれば苛立つだろうなと思いつつ、それでもこういった形式に関する違和感を見過ごすことができない。
その理由を考えていてふと、面白いことに気が付いた。実の所、「教えられることでしか学べない物」は実は形式しかないのだ。
全く低い可能性だけれど、僕達はある日突然数の概念に目覚め、独自に数学を建設する可能性を持っている。だけれど、例えば0の発見を独立に行ったとして、その0に``0''という記号を割り当てることは偶然によってしか可能ではない。
もちろん、形式的な部分は、数学にとって最も取るに足らない部分だ。だから生徒がそれを軽視し、殊更にそれを強調する教師に苛立つとしてもそれは当然だと思う。だけれど、生徒には少なくともその「苛立つ自由」を与えなければいけないと思う。教師が生徒に与えられるのは可能性だけだ。そして教師が語らないというだけで閉ざされてしまう可能性があるのならば、その可能性を与えるのは教師の使命なのだろう。
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