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2004/09/01(水)
テジナ
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マジックを見ていて A「あれはこういう種なんだよ」 B「夢がない奴だな」
ありがちなシーンだけど、色々と面白い事を教えてくれる。
まず重要な事はBは決してそのマジックが何らかの超自然的な力で行われているとは考えていないということだ。それは、マジックがTVでも行われることを考えれば分かる。TVなのだから、映像等いくらでも人工的に作ることができる。それにも関わらず、単なる非現実的な映像に対する物とは別種の興奮をマジックが与えてくれるのは、それが人間の技術によって実現可能であり、そしてマジシャンが律儀にそれを実行しているのだと暗黙の内に了解されているからだ。その興奮は「技術に対する称賛」なのである。確かにマジックは初期には魔術と区別なく扱われていたそうだが、今では誰でもそれに種があることを知っている。
だからBが苛立っているのは、このマジックには種があるというAの指摘に対してではなく、種があるかどうかを云々しているAの姿勢に対してである。Bは種があることなど承知して楽しんでいるのに、そのような取るに足らないことを誇らしげに隣でまくし立てられては苛立ちもする。
普通このようなシーンでは、Aにはセーヨーテキゴーリシュギシャ、科学の信奉者の役回りが与えられている。しかし実はBの姿勢もまた世俗的な意味での「科学的」、すなわり科学の信奉者であり合理主義者である。Aは単に幼稚であり、Bは世俗的な意味で「科学的」である。マジシャンが実は超能力でマジックをしている可能性を真剣に検討すること、それは真の科学者のみに可能なことだ。
さて、それでもBが種をばらされた事そのものに苛立っているとしたら、それは恐らく、Bは「技術に対する称賛」のみならず、その技術そのものを不思議に思うことで知的興奮を得ていたためだろう。これは実の所、非常に「科学的」な姿勢だ。ただしBはあくまで不思議に思いわくわくするその状態を楽しんでいるのであって、真剣にマジックの種を知りたいと思っているわけではない。むしろそれは知的興奮の終りを意味するから嫌がる。それでAに対して苛立つわけだ。
普通「科学的」と言われる部分は科学の本質からすると的外れな場合が多い。特に科学の教育を論じる場合に、こういった事を良く認識していないために自分の中にたまたまあった「科学的」と思われる部分を子供達に強く求めることがあるのは危険なことだ。大槻教授のような人は啓蒙の名の下に科学の価値をむしろ減じている。疑問を持つことが殊更に美化されるけれど、我々は非常に高い頻度で疑問を持ち、それに曖昧な決着をつける事で心の安定を図っている。疑問を持つことが重要視されるのは、教育を論じる人たちの中にも、疑問を持ったその先のステップにまで進んだことがある人がほとんどいないからだ。しかしそこから踏み出してその疑問に本気で答えを与えようとする姿勢があって初めて科学が成り立つ。
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