Rukeの日記
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2004/04/19(月) クリコミ
http://www.gakushuin.ac.jp/〜881791/halJ.htm
よく日記を読んでいる田崎先生の繰り込み群に関する講義をとってみた。なんだか、ついついしゃべりすぎてしまう人のようで、基本的にはわかりやすいのだろうが、分かった気にさせられることのないように気をつけなければならなさそう。

それはともかくとして、今日は初日ということで物理全体に関する先生自身の考えをひたすらしゃべりまくられた。自分が結構普段考えていることと結構似ていたりして、少し安心した。

電磁気学ができた直後に相対性理論は作られたし、熱力学ができたのも比較的新しいできごとで、統計物理ができたのは実はアインシュタインの時代(というか、アインシュタイン自身がかなりのことをしていた。高校で分子運動論を中途半端に教えられて、多くの人がニュートン力学の直後だと思っているだろうなあ。)で、実はこの時代にはまだまだ分子や原子という考えは疑問視されていて、アインシュタインのブラウン運動の論文は分子の存在の有力な証拠になり、そうして分子や原子という考えが出てきたらすぐに光量子仮説を始めとする離散的な考え方がでてきて、量子力学に繋がっていく。この滅茶苦茶シーケンシャルな流れにどれだけの人が気づいているだろうか。ブレークスルーとかパラダイムの転換とか対立構造だとかが強調され、アインシュタインが相対性理論に対してではなくノーベル賞をもらったことに、また彼が量子力学に終始反対したことにまことしやかな説明が付けられたりするけれど、彼がどれほど物理学の流れのど真ん中に位置していたかにどれだけの人が気づいているだろうか。

多分研究の現場にいる人たちはもちろんこういったことを認識しているのだろう。しかし、一般のレベルにおりてくる物理に関する情報はやはり余りにも歪んでいる。先生もテレビのCGでいつのまにか納得してしまっている、などと言っていたが、NHKスペシャルとか雑誌のNEWTONなどの馬鹿みたいに鮮やかな映像やイラストは、啓蒙というにはほど遠い効果しか持っていない。
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ひっそりと張り紙がしてあるだけで全然周知されていないのだが、いつのまにか講義棟が全館禁煙になっている!!。素晴らしい。自治会が動いていた覚えもないのだが、珍しく建設的な進歩が自発的に行われた。
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http://ripjohn.s28.xrea.com/diary/2004_04.html#D2004_04_17

そのとおりだと思う。

そもそも、「責任」という言葉は「権利」「義務」と同様に、その正しい意味を問われることなく様様な主張の補強に乱用されている。ただの武器の一つとなっている。

#高校時代に現代社会の授業で「人権概念の発生」みたいな授業を受けて非常に驚いた。(つまりロックだヨハンシュトラウスだリヴァイアサンだワイバーンだサラマンダーだ(注:もちろんほとんど嘘です)が出てくる授業)。人権概念に関する議論は、その始まりから、権利をいかに制限するかが主題であったのだ。先生が喋る人権概念の歴史はあからさまにそのことを示しているのに、当の先生がそのことを全く強調せずにこの時代に権利という考え方が発生したかのように喋るのにはかなりの違和感を覚えた。実際の所権利という考え方は封建時代をかなり遡って存在したはずだ。

「いじめは絶対にしてはいけないことだけどさ、
いじめられる側にだって絶対に問題があるんだよね」
と言った言説がなされる。単に事実を述べただけだとすれば確かに正しい。しかし実際にはこのような発言は後で述べたことが前に述べたことを弱める根拠、あるいは反論する根拠であるという言外の意味をもって行われる。

この問題を考えるには、責任という言葉のごくごく簡単な基本をきちんと認識するだけで十分だ。それは「いじめた人間はいじめたことに責任を持つ」「いじめられた人間はいじめられたことに責任を持つ。しかしいじめたことに責任を持つことは決してない(当たり前だ)。」

主体と客体、行為と現象、そして責任と非はいずれにありやの混同がそこにはある。

このような形式的な議論はそれ自体では何も生み出さない、非常に空虚な議論である。しかしそれは少なくとも認識されて、より高度な議論の土台になっていなければならない。しかしそれが実現していることは滅多になく、歪みが常に生み出されつづけている。


肝心のイラクでの拉致事件について書くのが面倒になったので気が向いたらまた明日。
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覚書
土曜1:30(1:00には中目黒につくように)


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