Rukeの日記
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2004/12/04(土) ジッケンレポート
結局まだ忙しい。。。

んだけど急に入ったバイト。
実験レポートについて質問って、考察はともかく、予想と結果を聞くな〜!と言いたい。と思いつつ、それなりに教えてしまう。。。

ただ、自分の信念として、こういった状況で実験って面白いんだよ〜、とか、科学って面白いんだよ〜といった事を言うつもりはない。自分は別に科学の勧誘員ではないからだ。実の所僕にとって、物理が面白く感じられるのはレアな状況だし、実験に至ってははっきり言って嫌いだ。

物理学(に限らないのだが)は、分からないことがあって、それを分かるために作られた。それは動機、目的と手段を以って完結している。

何故か世の中には、学習はある浮世離れした姿勢によって行わなければいけないという妙な脅迫観念があるらしい。教育論者は二言目には面白さを伝える、という事を言うけれど、伝えるべきは本当にそんなことなのだろうか?

物理学がここまで発展したのはそれが面白かったからではないはずだ。物理学は、世界を理解し、ある程度の望みの結果を得る方法を知る目的のためにとられた一つの方法論に有望な可能性が見出され、できる限り一般的な目的の下で有用であるように長い年月を経て整備されてきた。物理学はそれ自体で、ある種の目的のために、強力であり有用である。伝えるべきはそれではないか。

物理学のほんの一部の、素人や子供にも面白く感じられる部分だけを抜き出して物理学の宣伝に使う、一体物理学というものは、そのように媚を売らなければいけないようなつまらない存在なのだろうか。そうではないはずだ。ペットボトルロケットの実験をしても、子供達にはペットボトルロケットが楽しいだけで、科学の何がしかが伝わったわけではない。たまたま、ペットボトルロケットの楽しさを科学の楽しさと勘違いした``騙された''生徒だけが科学に向けて歩を進め、外の生徒は「理科の授業がいつもこんなのだったら楽しいのに…」と思うだけである。

先生達は物理はほ〜らこんなに面白いんだよ〜とそればかりを言う。まるで物理を面白く感じられない者には物理をやる資格はないと言わんばかりに。大体、試験を目の前にした生徒が、(得意不得意はともかくとして)物理を面白いなどと感じられるわけがない。この巨大な学問体系に対する疎外感は強まるばかりだ。

どのような目的だろうと、どのような姿勢だろうと、物理学を学ぼうとするのならばそれで十分なのだ。目的にも姿勢にも、物理学が適しているかという問題はあっても、貴卑の別があろうはずがない。物理学が面白く感じられない者にも、物理学を学ぶ資格はあるのだ。そして、どのような目的、姿勢であろうと、「理解していなければどうしようもない」という基本は共通であり、当面すべき学習に対した違いはない。もちろん、受験のために学んでいるに過ぎない場合と世界の神秘の探求のために学ぶのとでは、その先は異なってくるだろうが。

理科離れが問題であるという。それは現代社会がその多くの部分を科学技術に負っていて、理系分野での研究者や技術者の存在とクオリティが国の競争力にすら結びつくからだ。それならば行政がすべきことは、理系分野の学習をする者が一定の利益を得、そうでない者が一定のリスクを作るような仕組みを作ることだ。学校制度や入学試験、そして幾分意味合いは異なる物の定期試験といったものは、元来そうした物のはずだ。そして我々は、利益やリスクと引き換えに、自由意志によって自分の行動を選ぶことができる。この領域に国家が踏み込むことは許されない。

どんな科目についても、そのような分野の存在するそもそもの動機を忘れ、面白さばかりを強調する広くはびこっている教育方針は、研究環境さえ与えれば安月給でも喜んでバカみたいに研究をしてくれるオタク研究者を量産しようとしているようにすら見え、余りにも不気味だ。


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