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2004/11/13(土)
ウンドーリョー
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こうして力学は(x,v)の代わりにより対等な立場にある二つの変数(x,p)により状態を記述することを考えるようになった。このpを運動量と言う。前者の形式はもう少し一般化されてラグランジュ形式と呼ばれ後者の形式もまたもう少し一般化されてハミルトン形式と言う。
ラグランジュ形式では、物理法則はある関数L(x,v)によって記述し、運動方程式は dx/dt=v d/dt∂L/∂v=∂L/∂x と書かれる。 一方ハミルトン形式では物理法則はある関数H(x,p)によって記述し、運動方程式は dx/dt=∂H/∂p dp/dt=-∂H/∂x と書かれる。
こうして我々は、dv/dtはいろいろに設定できるのにdx/dtは常にvである事に感じた不満を解消できた。
しかしそれにも関わらず我々の状態の記述の人為性はむしろ増しているのだ。運動量は速度以上に人為的な概念である。歴史的には運動量は保存則に着目して導入された。つまり、他の物体に与えたり他の物体から得る、という描像が可能であり、このため何らかの意味で物理的実体と言い得るように思えたからだ。しかしこれは本質的に「例えば右向きに進んでいる矢には、右向きに進みたがる粒子がたくさん付着しているのだ」という原始的な運動学と何ら変わらない。誰も運動量を見た者はいない。まだ速度の方が現象において露わに出現する。
そしてハミルトン形式ではxとpが両方関わるような変換のある種の物、例えば x'=1/√2x+1/√2p p'=-1/√2x+1/√2p によって得られるx',p'をも状態の記述として採用することができ、それがこの形式の一つの利点である。しかし実際には、x',p'を測定するほとんど唯一の方法はxとpをそれぞれ測定してこの変換式に代入することだ。
そしてここに至って浮上する最大の疑問は、何故我々の状態の記述は常に二つの変数が対となって現れるのか、ということである。我々は理論の歪さを形式的な操作によって解決しようとしてきた。そのために、形式的な操作によっては決して解決できない部分、最も本質的な疑問が浮かび上がってくるのである。
そう、ゼノンの矢のパラドクスは、「何故変数が常に二つ対で現れるのか」という疑問として古典力学に亡霊のように常につきまとう。
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