Rukeの日記
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2004/11/29(月) あー疲れた
駒場祭からこの方、めちゃくちゃ忙しかった。多分これで全部片付けた…。よな?
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結局今日も忙しかった。。。
計算に追われる日々…。

2004/11/21(日) エーテーエー
店番の合間に秋葉原まで行ってハードディスクを買って来た。今回の改造の目的はつまりはここにあって、やはりシステムドライブとデータドライブは分離したいよね、ということ。ただそうなるとシステムドライブには120GBも必要ないし、DVDドライブとフロッピー&カードリーダを5inchベイ一つに収めるのに余計な投資が必要で、ちょっと躊躇していたのが、このスロットイン式のドライブが出たために実行に踏み切った。

買ったのはWeastern Digitalの160GBの製品。
http://www.westerndigital.com/jp/products/Products.asp?DriveID=66
今ままで使用していた(従って今回システムドライブに流用される)ハードディスクはMaxtorの6Y120P0で特にトラブルもないので、6Y160P0にする方が無難かとも思ったのだけれど、WDの製品の評判が良いようなので、比較にもなるし、とこいつにした。

んで家に帰って組み込んでみると。。。このケーブル、スレーブ接続がないぞ。。。撃沈。

明日買ってこなければ。

なお、現在NEC ND-2500Aがあまっています。快変ファーム適用済みでRitekのDLメディアサポート等スペック的にはND-2510Aより上です。5千円くらいで買ってくれる人募集中。なお、6千円で買ってくれる人がいれば即決です。

2004/11/20(土) スロットイン
秋葉原行ってお買い物して、バイト先の塾に行って置き忘れていった上着をとって、駒場キャンパスまでいってテントを運んで。あー、疲れた。というか、ぐだぐだしていたら家を出る時刻が当初の予定より1時間遅れたためせわしなかった。

5inchベイに3.5inchドライブとスリムドライブを収めるマウンタについては、owltechのものより1000円ほど安い製品があった。Justy製だそうだ。これがチープ感漂う金属の曲げ加工による製品でちょっと躊躇したのだが、CDオーディオの切り替え(もう一台普通の5inchドライブを搭載している場合を想定しているらしい)スイッチに惹かれた(といってもう一つドライブを搭載するわけではない。EL発光パネルのスイッチにしようかな)ため安さもあって余り悩まず購入したのだけどちょっと失敗したかも。チープ感は隠せないしキューブPCには合わないし加工精度は最悪だし。ネジしめが大変。というか、高さがどう考えても金属の厚み分高い。

まあとにかくそうやってできたのが下の写真。

トレイローディング式のような「頑張って小さくしました」ではなく「小さくても構わないから小さくしました」と感じられるのがスロットイン式。全くストレスがない。これはキューブタイプのPCがはやった原因でもあるんだけど、一部の特殊な用途を除けば省スペースってのは「小さいにこしたことはない」なわけで。他の利便性とトレードオフで省スペースを実現する限りそれはニッチ製品に過ぎない。キューブPCが流行ったのはPCがかなり成熟して、かつてはPCIスロット数やドライブ数によって様様に差別化されていたケースがただの箱になりさがった結果「もっと小さくできるじゃん」と感じられるようになり、それをまさに実現したからなんだよね。
#しかし実際には、メカニックを収めるぶんスリムドライブでスロットインを実現するのは難しいらしい

メカニカルなローディングギミックが最高すぎる。ばね仕掛けは駄目ですよやっぱり。テクノロジは十分成熟した上でバラックボックスにならなきゃね。

2004/11/18(木) バクサツ
演習の中間試験。なんだか全然できなかったぞ。計算力がメタメタ。自明解が、方程式の段階ではちゃんと満たされているのに二次方程式の解の公式を使ったら満たさなくなるとかありえない。というか体力がメタメタ。何だか開始20分で首が痛くなったんですけど。結局終了5分前に方針転換して立式だけ終わらせておいた。う〜ん、予定では一時間くらいで終わらせて秋葉原にいってお買い物する予定だったのに。土曜日、駒場祭準備が始まる前にでもいくか。

現在画策しているのが
http://www.owltech.co.jp/products/bracket/BRA-CRD/bra-crd.html
こいつと
http://www.watch.impress.co.jp/akiba/hotline/20041002/etc_dvrk04l.html
を導入してトレードオフ要素0で3.5inchベイを一つ空け、そこにハードディスクを入れること。ただなー。DVDの書き込みドライブが5inchならもう馬鹿みたいな値段になっている現状を考えると、ドライブに2万はなー。思ったよりHalfLife2の講入欲がわかないのでまあ良いか。
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僕のPCはプロバイダ提供(偉いぞ)のNTPサーバを用いて時計合わせをしている。一方置時計は電波時計だ。んで、この二つ、いつ見ても秒の単位まであっているのですよ。これは結構感激な進歩だ。

2004/11/17(水) イングリッシュ
真面目な文章などを書いてみる。
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[小さな事件]
 2004年7月。東京大学の学生の間に衝撃が走った。外国語の教科書や語学教材の訳文を掲載しているWEBサイトに
・語学教育の効果を著しく減殺する
・著作権・編集著作権を侵害するもので犯罪に該当する恐れがある
という二点を主な趣旨とした警告文が送りつけられ、各サイトの管理者が該当コンテンツの掲載を取り止める事態となったのだ。
 当然、これらのコンテンツに全面的に頼って試験を乗り切るつもりだった学生達はパニックになった。特に英語の統一授業である英語Tの教科書「The Universe of English」の全訳を掲載していたall-todai.comがその掲載の取り止めに追い込まれたのが、ちょうど夏学期期末試験の前日であった事は、もちろん偶然ではなく意図された物であり一夜漬けで全訳にだけ目を通して試験に臨もうとしていた学生達は途方に暮れる事になった。
 多くの学生が怒りを口にしたが、それは殆どの場合このような訳文を利用した勉強が「ズル」であるという負い目の下での「もっと寛容で良いじゃないか」といった主張であり、基本的には学生同士の間での愚痴といった類の物に留まり、大学を対象に据えた発言も、問題にされるのは常に「程度」であって、大学側の主張自体の正当性は認めているのだった。私にとって驚くべき事に、私が所属しているクラスのWEBサイトではこの騒動を受けて自主的に過去問やシケプリ(試験対策のために有志が作製し希望者に配布するプリント)の掲載を取り止めた。
 実際この問題について意見を問えば、このようなWEBコンテンツを便利に利用してきて、このような警告行為を行なった大学に強く不満を感じている学生でさえも、大学側の主張の正当性自体は認めるだろう。だが、本当にそれは正しいのだろうか。
 この問題を通じて現代の教育の大きな問題点が見えてくる。教育とは与える事であり、学習とは得る事である。教育の最も基本的なこの前提が教育者、学習者双方によって大きく崩され、今教育の意味が見失われようとしている。
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NHKっぽい導入だな〜。

2004/11/15(月) サムイ
寒い。
自宅生だとこれくらいの時期、親がファンヒータを使わせまいとぎりぎりまでねばるため、はっきりいって真冬よりも寒い。
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持ち運べるノートパソコンが欲しくて懸賞サイトに応募しまくった。。。27件。数ヶ月全く不要なメルマガをたくさん受け取ることに。一店は、もし当選するとストッキング福袋1万円がくっついてくるらしい(笑)
http://www.rakuten.co.jp/jpavenue/622847/

2004/11/14(日) リョーシリキガク
このようにゼノンのパラドクスは、「何故常に変数が二つ組で現れるのか」という疑問に姿を変え古典力学に最後まで付きまとう。そして古典力学においてそれが解決されることはない。

物理学理論は常に閉じた形式を持ち、現象と適合するかどうかだけがその正しさの指標だ。だから、こういった疑問の解決を物理学に要求すべきでないし、物理学もそれに答える義理はない。

古典力学の段階でここまで書いてきたような議論を行ったたばらそれはトンデモ科学に類する物となるだろう。

にも関わらず、驚くべきことに物理学はこの疑問に答えを与えたのだと考える事には一定の意味があるだろう。すなわち、量子論においては``量子系に位置という情報を持たせようとすると、必然的に運動量が付随する''。量子論に至って物理学はゼノンのパラドクスに形式的に留まらない解決を与えたのだ。
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紀宮さま婚約ということで、報道が、少しでも多くを記事にしようと、かつ、当り障りのない事に留めようとするために相当異様な事になっている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041114-00000012-yom-soci
この異様な会見とか。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041114-00000013-yom-soci
「自然や写真、そして車への深い造詣」とかの文章の捻り出し具合は、少年事件の後に周辺の住民の僅かな話から少年像を作り上げようとするプロセスに似ている。でもまあ、さすがにこちらは、婚約が決まる前からいろいろ調べていたんだろうけど。

2004/11/13(土) ウンドーリョー
こうして力学は(x,v)の代わりにより対等な立場にある二つの変数(x,p)により状態を記述することを考えるようになった。このpを運動量と言う。前者の形式はもう少し一般化されてラグランジュ形式と呼ばれ後者の形式もまたもう少し一般化されてハミルトン形式と言う。

ラグランジュ形式では、物理法則はある関数L(x,v)によって記述し、運動方程式は
dx/dt=v
d/dt∂L/∂v=∂L/∂x
と書かれる。
一方ハミルトン形式では物理法則はある関数H(x,p)によって記述し、運動方程式は
dx/dt=∂H/∂p
dp/dt=-∂H/∂x
と書かれる。

こうして我々は、dv/dtはいろいろに設定できるのにdx/dtは常にvである事に感じた不満を解消できた。

しかしそれにも関わらず我々の状態の記述の人為性はむしろ増しているのだ。運動量は速度以上に人為的な概念である。歴史的には運動量は保存則に着目して導入された。つまり、他の物体に与えたり他の物体から得る、という描像が可能であり、このため何らかの意味で物理的実体と言い得るように思えたからだ。しかしこれは本質的に「例えば右向きに進んでいる矢には、右向きに進みたがる粒子がたくさん付着しているのだ」という原始的な運動学と何ら変わらない。誰も運動量を見た者はいない。まだ速度の方が現象において露わに出現する。

そしてハミルトン形式ではxとpが両方関わるような変換のある種の物、例えば
x'=1/√2x+1/√2p
p'=-1/√2x+1/√2p
によって得られるx',p'をも状態の記述として採用することができ、それがこの形式の一つの利点である。しかし実際には、x',p'を測定するほとんど唯一の方法はxとpをそれぞれ測定してこの変換式に代入することだ。

そしてここに至って浮上する最大の疑問は、何故我々の状態の記述は常に二つの変数が対となって現れるのか、ということである。我々は理論の歪さを形式的な操作によって解決しようとしてきた。そのために、形式的な操作によっては決して解決できない部分、最も本質的な疑問が浮かび上がってくるのである。

そう、ゼノンの矢のパラドクスは、「何故変数が常に二つ対で現れるのか」という疑問として古典力学に亡霊のように常につきまとう。

2004/11/11(木) ウニャ
うん。やっぱ予想していた質問が出ると嬉しいね。今週は二回も演習の担当があったので疲れた。やっぱ黒板に書きながら全体に喋るのってめちゃくちゃ苦手。

2004/11/10(水) ヒクイ
原稿書いていたのだけど、上手くまとまらなく、意外に原稿も集まっているのでもうボツに。最近あらゆるモチベーションが下がっていてちょっとまずい。この日記も更新が滞りがちだしなあ。

2004/11/09(火) イキトビラ
うわっ。いつのまにかライブドア傘下に。

2004/11/08(月) ジョータイクーカン
11/4の続き。

さて、隠れた変数vの導入が余りにも形式的に過ぎると言っても、同じ(x,v)に置かれた系が必ず同じ時間変化をする以上、xとvが正しく状態を完全に記述することは疑いがない。実際そう思って衝突現象等を眺めてみれば、確かに速度vの違いは状態としての違いであるようにも思えてくる。vの違いが直接的に結果の違いを生むような現象は注意してみればいくらでも見つかる。

しかし不満が残るのは、vの違いが現れるのは常に結果に対してであるということだ。言い換えれば我々は結果を通してしかvを知ることができない。瞬間が所有する情報としての速度vとは一体何のか?

この不満をもう少し具体的に書くとするとこうなるだろう。

まず、xが勝手に縦横無尽に変化しさえすれば、それを微分する事で速度vを得ることができる。この意味でvは余りに人為的な量であり、xとvを以って記述された物理法則を、世界の構造を抽出したと誇らしげに掲げるには躊躇せざるを得ない。

また逆に、瞬間の所有する情報たるvを決定するためには常に、その瞬間だけでなくその近辺の情報が同時に必要だ。vは人為的であるばかりでなく、局所的ではある物の、瞬間が所有する情報であるとは考えにくい。

もっともこれらはあくまで感覚的な不満であり、ニュートン力学の問題点とはならない。つまり、ニュートン力学では状態(x,v)の時間発展を与える物理法則は
dx/dt=v
dv/dt=f(x,v)/m
と書かれ、従って、我々はxの変化率を測定することで間接的にvを知ることができるのだと説明されるだけだ。しかしやはりこれは完全に形式的な説明だ。

vの人為性に由来するもう一つの問題は、何故dx/dtは常にvで与えられるのかという問題だ。あなたが今突然神様に任命され、x,vという変数を与えられて、好きなように世界を作れと言われれば、腕によりをかけて関数f(x,v),g(x,v)を作り
dx/dt=f(x,v)
dv/dt=g(x,v)
とするに違いない。我々の例ではdx/dt=vはxの変化を与えるとともにvの定義であるからf(x,v)が単にvと簡単な形を取るのはもちろん当然なのだが、それでもやはり(x,v)を以って状態の記述とする事には歪さを感じざるを得ない。

2004/11/06(土) アレヤコレヤ
昼におきてティスランの不変量を調べて、結局わからなくて、大学に行って印刷機の予約をして、ついでに高校の文化祭に行ったら中夜の日なのでもう終わってて、差し入れにチョコを買っていったのだけど知らない中学生が数人しかいなかったので預けるのもあれかな、とそのまま持ち帰ってばりぼり食べながら帰ってきた(駄目すぎ)。

明日は自分の原稿を書いてできたら編集も手をつけなければならず、今日のうちに自分が説明しなければならない演習問題だけ終わらす。ふ〜ん、相対論に従って計算して、近似を入れると非相対論的計算にあうというのが普通だけど、コンプトン散乱は、非相対論的に計算して波長の変位が小さいとすると相対論の厳密な計算と合うのか。少し奇妙。

2004/11/04(木) ゼノンノヤ
11/1の続き。

そして、ゼノンの矢のパラドクスは、まさに対称性の期待を背景に持っている。ある位置にある矢は、ある時にはそのまま止まりつづけ、ある時には飛び去っていく。

しかし我々はある物理法則があって同じ状態からは同じ結果が得られるようにこの世界はできていると期待している。それではそのまま止まりつづける状態と飛び去っていく状態とは何が異なるのだろうか?これは現代的な言葉でいえば「隠れた変数」の探索である。つまり、標準的な物理学者がこのような状況に直面したならば彼らはこれをパラドクスであると認識するわけでなく、単に状態の完全な記述を手に入れようとするだろう。

しかしこの問題が物理学が体系化されるよりはるか昔に、特定の運動学理論に対する批判ではなしにもっと一般的な、世界に対する疑問として提出されたのは、我々には感覚的に、止まっている矢と飛び去る矢の瞬間における状態が完全に同一であるように思えるからだ。従って、この問題を形式的に解決することはできても、心底得心の行く解決を与えることは非常に難しい。

例えば右向きに進んでいる矢には、右向きに進みたがる粒子がたくさん付着しているのだという説明をすることができるだろう。驚くことにこの理論は、空気抵抗によって矢が減速する現象すらも説明することができる。

恐らくゼノンの時代にもこのような原始的な運動学理論が存在しただろう。

この理論に対する反論としてもっとも大事な物はこの理論が何も説明していないという物だ。つまり右向きに進みたがる粒子は疑いようもなく右向きに進むだろうが、それは矢が右向きに進む理由にはならない。粒子は矢を置いてさっさと飛んでいってしまうだろう。このような粒子が付着することにより矢の状態が変化して矢自体が右向きに進みたがる性質を持つのならば結局矢には位置以外の「隠れた変数」が存在するということであり、出発点に戻ってきてしまう。

しかしそのような理論の詳細な部分については単に学者の研究課題であって少なくともパラドクスには結びつかない。ゼノンの矢のパラドクスは-そして多くのパラドクスは-全く感覚的な問題提起であり、その意味で最も重要な問題は、このような粒子を見たものがいないということだ。この事に関しては物質の下部-内部-構造をより詳しく知っている現代の我々はより強い確信を持って反論することができるだろう。結局の所位置さえ一致すれば、我々にはそれが同じ状態に感じられるのであり、それらが如何にして異なる状態たり得るのか得心の行く説明を与えることは難しい。

そして、時代が下って満を持して登場したニュートンの力学理論もまた、この問題を完全に形式的に処理するに留まった。ニュートンは、位置と速度を持って状態としたのだ。静止しつづける矢と3m/sで飛び去る矢との状態の違いとは何か?という問いに対して「速度が違うのだ」と答えるこのアプローチは、ニュートンの力学理論を形式的に完全なものとしたが、疑問に対する答えを与えているとは言いがたい。

のみならず実際、ニュートンの力学理論は理論としては全く問題を持たず実験とも十分に一致したにも関わらず、この点に密接に関わる多くの不満を持たれ、それは物理学の発展の一つの原動力となっていった。

位置と速度を持って状態の完全な記述と考えるということは、瞬間の直後の位置と速度がその瞬間の位置と速度のみから決定されるということだ。ただし連続な時間変化を考えるからそれは微分法則の形を取らざるを得ないため

dx/dt=g(x.v)
dv/dt=h(x,v)

と書かれる。ただしvはすなわち速度だからgについては既に決まっていて
dx/dt=v
である。問題はとなるのはh(x,v)である。ニュートン力学の第三法則の主張は物体に固有の質量という値mがあって、f(x,v)=h(x.v)/mに着目すると作用反作用の法則が成り立つというものだ。このfが力と呼ばれる。

こうしてニュートンは第二法則としてmdv/dt=f(x,v)を挙げた。ニュートンは万有引力の法則を提出したが、運動の基本法則に力の具体的な表現を含ませなかった。つまり、第二法則の本質的な主張はmdv/dtに着目すると、これは必ずx,vの関数となっているということだ。それ故に(x,v)を状態の記述として採用することが正当化されるのである。

そしてそれはあらゆる場合について実験で確かめられた。つまり、どんな環境を用意しても、同じ(x,v)に状態を置けば、その後に同じ現象が起きた。

従って(x,v)によって状態が完全に記述されることは疑いがない。それでも(x,v)をもって物理法則を記述することには、隠れた変数vの導入が余りにも形式的に過ぎたことに由来する歪さが付きまとう。

2004/11/03(水) ウェブ
WEBページ製作のお仕事をした。疲れた。

11月絵日記の続き


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