Rukeの日記
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2004/10/04(月) バイトニテ
先日、個人指導のバイトで嬉しい事があった。
もともとある生徒の、学校の実力試験対策に過去問を見ていたのが、それが
「9^100の下三桁を求めよ」
という問題。生徒はしばらく考えて、皆目見当がつかないと助けを求めてきた。手元にあった模範解答には(10-1)^100と考えて二項展開を行う(10^3以降の項は下三桁に関与しないので定数項から三項計算すればよい。)方法が載っていた。が、自分はこの方法に不満があった。というのも、この問題はまず原理的に直接計算が可能な単なる計算問題であり、しかも実際問題としても、現実的な時間内で計算が終わるからだ(下三桁だけでよいから毎回の掛け算にかかる時間は変わらない。一回に5秒として10分以内に計算できてしまう。倍倍にしていく方法ならもっと早い)。

しかもこれは試験対策。普段の指導なら、後々の役に立つかとトリッキーな方法を教えもするが、自発的に出てこなかった方法を新しく教えた所で差し迫った試験で役に立つわけがない。過去問は、絶対出ない問題でもある。今やるべきことは生徒が現在持っているバックグラウンドを整理し、その段階において持っているバックグラウンドに照らして最も自然な方針を迅速に立てられるようにしてやることだ。

そんなわけで、まず、100回掛け算してしまうという方法がある、と言ったわけなのだが、どうも反応が悪い。似たような事は良く経験していて、気合で力押しで解く、というのに生徒達はかなり強い抵抗、というか不安を感じるようだ。

例えば因数分解は、必ずこうすれば解けるという方法はなく、見通しよく式変形する必要があるのだが、展開計算は、単に分配法則でばらしていけばよい。しかしながら多くの生徒は頻繁に鉛筆が止まり、そんなの気合でがんがん計算すればいいんだよ、と促してやらないと先に進めなくなるし、それで結果が出ても釈然としない表情をする。そういう時は、展開計算はテクニックなど関係なくどんどんばらしていくだけなんだ、と最後にもう一度コメントするものの、余り自分の考え方を押し付けるわけにも行かないので適当な公式の組み合わせで解く方法も示してやるとやっと安心してくれる(実際力押しで展開するだけだと、生徒はひたすら機械的に計算するだけ、講師は何もコメントせずに答え合わせをするだけになってしまって、双方とも不安になるのは確かだ。しかし、展開計算とは実際それだけの、とるに足らない計算なのだという事をこそ伝えたいのだが)。

今回も似た状況で、気合で計算する方法を協力にプッシュしたものの、結局生徒は(10-1)^100として計算する方を選択した。

何というか、勉強を自分の外の事として捉える傾向がどうしてもあって、これはやはり、授業の後完全に定着することなく試験、そして次の単元という過程を幾度となく繰り返し、何かを理解するということを一度たりとも経験したことがないせいだと思うのだけど、何となくどこかに漂う「正解」を想定し、それを不安げに予想して解答を作る、というふうになってしまっている。だからいつも、自分の解答に確信が持てず、丸がついて帰ってきて始めて、「ああ、これで正解だったんだ」となる。判断基準が外部にあるこのような状況は余りにも悲しい。どんなに小さくても良いから、ここまでは理解しているという領域を持ち、その部分に関しては自分の中で完結している(すると逆にある問題が自力で解決できない場合に自分に何が足りず何が判れば解答にたどり着けるのかが明確に認識できるから、講師に明確な質問ができ、理解はどんどん進むし、講師も最高に指導しやすい)という理想に従う事は、その分野の習熟度に関係しない単なる姿勢の問題なのだが、やはり中学生や高校生には難しいようだ。

余談だが、このような傾向は、特に数学でひらめきを異常に神聖視するばかげた傾向にも原因を求めることができるだろう。自然科学の普遍性とは、どこでも、いつでも、だれにとっても成り立つということだけではなく、誰にでも使えるということだ。できない事があって、それをできるようにするために学問は発達したのであって、それははじめから愚者のための物であるはずだ。特にプライドの高い生徒ほどそうなのだが、指導する側からすればどう考えてもそうするのが自然で何はともあれそうすべきことをしなかった場合に、生徒達は「気づかなかった」を頻繁に使う。ひらめきや直感によってしか到達できない巧妙な解法が要求されることなど滅多になく、生徒達に要求されていることは、有限の状況下での限られた典型的な手続きを習得することだ。そして問題解決をできる限りパターン化する、というのは、学問的にも非常に自然な一つの方向なのである。だけれど、パターン化=悪という妙な固定観念のせいで、教育の現場では、それは全く強調されない。

ところがですね、他の同じ高校の生徒を担当していて、この問題がぽっと話題に出た時、この生徒が笑いながら「ああ、この問題すごいですよねー。うちの生徒なら皆気合で計算しちゃいますよ」と話したのだ。先の生徒の例があるから、この「皆」というのは信用できないけれど、少なくともここに、下らない外部の価値観に縛られずに、自分の中で目的-手段関係を完結させている高校生がいる。これが非常に嬉しく感じられたのだ。


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