Rukeの日記
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2004/10/17(日) ヨリドコロ
それでも僕が第一原理主義を物理学の教科書や解説書の始めの方の段階でもっと強調すべきだと思うのは、結局の所決定論的世界観は物理学の基本であり拠り所であるからだ。神様がOOの法則やXXの法則を満たすようにこの世界を作ったからそれらの法則が成り立っているのだというのならば世界を理解しようとする我々の試みは徒労に終わらざるを得ないだろう。しかし我々の世界があるメカニズムによって駆動されていて、その結果としてそれらの法則が成り立っているのだとする認識は、例えそれらの法則を第一原理的に説明することができなくても、物理学において大きな精神的な支えになる。

例えば量子力学は、多くの哲学的議論を誘発したが、今では哲学的視点に依存したような物ではないことが分かっている。しかしながら細かい話は飛ばしてさっさと本題に入るためそういった話は「物理学では理論の正しさは実験で決めるのであり、量子力学はきちんと実験で確かめられているから正しいのだ」などと済ませてしまう。それは僕らに釈然としない物を残すのだが、その感覚とは結局の所、量子力学の建設に際して物理学者達自身が経験した物と同じ種類の物だ。つまり、量子力学に第一原理が見当たらない事が困惑の原因となる。

特に粒子についての状態ベクトルは同等の情報を(複素)関数に負わせることができる。初期の量子力学はこの波動関数と呼ばれる関数で記述された。関数という物は結局の所ラベル付けされた数字の列であり、無限次元ベクトルとして捉えることができるが、これが関数として認識されていたため、状態とは粒子の位置や速度の事であり、これらはミクロな現象では何故か確率的な振る舞いをし、その確率分布や期待値を計算するための道具が波動関数であるという風に捉えられてきた。しかしそこで判明した法則は全て第一原理的な物ではなく、波動関数に対するある種の数学的な操作が何故だか特定の意味を持つということだった。第一原理的でない法則は別段珍しいものではないが、それにしても固有方程式という特別な微分方程式を満たす波動関数を求めてみるとそれが与えるような確率分布だけが実際に実現するとか、波動関数の特殊な積分が運動量の期待値を与えるといった主張は物理学者を困惑させた。人間が勝手にやる数学的操作が意味を持つように世界ができているとは思えない。もっとこれらの確率分布などを与える第一原理的な法則があり、それによって定まるような事物を計算する便法が、先に見つかってしまったのではないか…。

この疑問は波動関数の時間発展を与えるシュレディンガー方程式が得られてなおしばらく残ったが、波動関数こそが状態の記述であると考えることでほとんどすっきりとした解決を見た。一つだけ残った問題は、古典的な物理量の測定値が確率的にばらつくことの説明ができそうにないことだった。何故なら、Aという物理量を測定してaという値を得た直後にもう一度測定を行うと今度は確率的にばらつかずにaが必ず得られるからだ。これはつまり測定によって系は確率的にある意味で古典的とも言える状態に変化したということで、シュレディンガー方程式は決定論的だからこれはおかしい。このこと、つまりシュレディンガー方程式による時間発展にどんな極限操作を施しても量子力学の確率規則が得られない事はフォン・ノイマンが厳密に証明し、彼は測定行為(さらには人間、意識といったもの)を特別視した量子力学の一般的で数学的に満足のいく形式をまとめた。従ってこの体系は測定の問題を除いてはもはや哲学的な立場に依存するものではなくなった。

こうして量子力学は第一原理的な記述を獲得したが、測定の問題だけが残った。この問題は長らく幾つかの哲学的な解釈でお茶を濁される事になったが、結局当の物理学者達自身が測定の過程を第一原理的に記述したいという欲求を無視することができなかった。何しろ測定は、そして我々人間は単なる現象にすぎないのだから、測定者、測定機、測定される系の合成系を時間発展させれば測定の過程が引き起こされるはずであり、その結果として確率規則は説明されるべきだ。また、物理学者が実験をして測定するということは我々の世界で日常的にあらゆる場所で起こっているというわけではない。例えばダブルスリットの実験では写真乾板を観測装置として捉えることもできるし、写真乾板をも観測される対象として捉えることもできる。ところがいずれにしろ光子が写真乾板に達した時点で系の振る舞いは古典的になり、ほとんど確定的に一つの粒子が感光する。そもそも我々が観測するまでもなく、例えその根底に量子力学があろうとも宇宙はほとんど至る所で古典的に振る舞うのであり(だからこそ我々は長い間量子力学に気づかなかった)、測定とはそのような量子系が量子力学的な性質を失う特に珍しくも無い過程を人為的に過激に引き起こした物として捉えるべきだ。

そしてこの観測の問題は現在では非常に面白い状況にある。実は量子力学的世界では世界を部分系に分けたとしても、それらは古典論に慣れた我々が直感的に感じるよりも、曖昧な言い方で、非常に強く結合する事がわかってきた。そしてその事を念頭に測定問題を考察し直すことで、確率規則が量子力学の時間発展の規則と少なくとも矛盾しないことが分かっている。しかしながらそれ以上の成果はまだ完全な物ではない。つまり測定の過程を時間発展の規則によって上手く説明しようという試みはごくごく部分的にしか成功していない。


面白いのは、これによって、物理学における観測問題に対する興味が、なくなってしまったわけではないが、数ある興味深い問題のうちの一つという程度のレベルまで落ちてしまったことだ。かつてはこの問題は量子力学にとって致命的な問題となり得る問題だったが、今ではむしろ実用的な目的から-量子力学の確率規則は理想的な測定に対する物で、実際の測定を扱うためには測定のもっと一般的な定式化が不可欠だ-研究される一分野となっている。


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