Rukeの日記
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2004/10/16(土) ヒサシブリ
だいぶ時間があいてしまった。
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このように第一原理と呼ばれる法則は世界の作り方を与えてくれる。それは一つには我々の世界を模した擬似世界の創造であり、さらには、我々の世界と共通の枠組みの元で作られる独自の世界でもある。

第一原理主義には、ここに由来して狭義の第一原理主義と広義の第一原理主義があると言えるだろう。

狭義の第一原理主義とは、究極の状態空間Sと、状態sの時間発展ds/dtを与えるf(s)のみが必要な知識であり、それのみを用いてあらゆる現象を説明できるとする考え方だ。これだけだと還元主義と呼ばれる主義と余り区別がつかないが、第一原理主義者は特に第一原理計算と呼ばれる計算を重視する。これは先に述べたような方法で実際にsをf(s)を用いて時間発展させることであらゆる知見が得られるという考え方だ。例えば分子の構造は基本的には観測してみなければ分からない物だが最近ではコンピュータを用いてかなりの部分が予測できるようになってきた。しかしこれはいくつもの経験的な法則を現象論的に組み合わせる物で要は類似の現象からの類推を上手に行っているにすぎないというのが第一原理主義者の不満である。彼らは電子と核子を適切にばらまいてシュレディンガー方程式によって時間発展させれば自動的に分子の構造に至って定常的になるはずだと期待する。これがどうしても近似的になるため、従来は「計算精度が十分高くなれば第一原理計算以外必要なくなるだろう」という期待を拠り所としながら還元主義的な議論すなわち「これらの経験的な法則といえども頑張って数学を整備すれば第一原理から説明できるはずだ」を行っていたのが、近年コンピュータの計算能力が飛躍的に高まって、第一原理計算へ過剰な期待を寄せるようになった。

広義の第一原理主義では、第一原理と呼ばれる法則が状態空間Sやf(s)に自由度を残している事の価値は認める。しかしながら彼らはやはり、時間発展の直接計算を神聖視する。つまり、例えば太陽の回りを周回する地球の運動を考える時に地球を構成する全ての微小粒子の運動方程式を考えたり、全ての電子や核子の波動関数の時間発展を考えたり、さらには量子場まで持ち出したりする必要はさすがに主張しない。地球の動きを記述するにはその重心の位置と速度(運動量)で十分だ。しかしながらとにかくニュートン力学の一般的な処方箋に従いこの重心の位置と速度が従う運動方程式を書くことができる。そしてそれが書けるのならばそれ以上物理や数学の議論は必要は無く、実際に時間発展させてみればよい、これが彼らの主張である。

このような考え方には致命的な問題点がある。
最大の問題点は第一原理計算は実は何も教えてくれないということだ。
例えば地球を運動方程式に従って時間発展させれば楕円を描く。おお、すごい。だがそんな事は地球の運動を観測することでとっくの昔に分かっていることだ。

つまり、第一原理計算は世界の真似をすることで、それはもちろん、世界自身こそが一番上手く行える事だ。第一原理計算は実験が難しい状況や観測が難しい過程を観察する目的で実験の代用にはなるし(数値実験と呼ばれる)、例えば渦巻き銀河が実際に重力の相互作用のみで形成される事を示すことで第一原理の正しさ(あるいは特定のモデルの正しさ)を確認する役には立つが現象の背後にある構造を浮き彫りにしてその理解を図る理論的アプローチにおいてすぐに役に立つわけではない。

他に細かい技術的な問題として誤差の評価やその影響の見積もりが難しいことがある。数字上の誤差についてはある程度解析的アプローチで見積もることができるが定性的な結果の有効性は簡単な問題ではない。

例えば最近数値積分で注目されているシンプレクティック法というものがある。ニュートン力学から発展した解析力学では状態空間Sを相空間または位相空間と呼ばれる抽象的な空間にとり、時間発展を与えるf(s)にいくつかの要請を行う。シンプレクティック法では、もちろん近似計算を行うのだがその結果が解析力学の要請を満たすあるf'(s)があってこれによる時間発展に厳密に一致するという物だ。従って、この計算結果はもちろん本当に欲しい答えとは異なるが、何を計算しているのか知らない人間が見れば、物理的におかしな所は何もないという結果になる。特に標語的に言われるのはこの方法ではエネルギーが保存するということだ(普通の近似計算ではエネルギーは大抵増加し続けたり現象し続けたりする)。これはf'(s)に対応するエネルギーE'(s)があってこれが厳密に保存し、本来のE(s)とE'(s)の差が有限であるために、E(s)は本来の値付近を振動するものの、発散したり散逸したりすることはないというものだ。

しかしこの性質は重要な物であるが無邪気に喜べるものではない。精度を良くしたためにエネルギーが保存するのではなく、振動するのだが他の理由によりとにかく発散しないというのならこの計算は一体どこまで信用できるのか。正しい結果とは全く異なる滅茶苦茶な振る舞いをしながらとにかくエネルギーだけは保存しているという疑いを持たなければいけない(事実このアプローチではどんなに刻み幅を大きくしてもエネルギーは保存する)。結局エネルギーが保存するからといっても必要な精度を得るために刻み幅を十分小さくする必要は残っている。それならば、エネルギーが保存するのは確かに嬉しいが、どうしてもエネルギーに保存して欲しいというほどのものではないということになる。むしろ、我々は未知の結果を知るために計算を行うのに、その結果が間違ってはいるが物理的には全くおかしくないというのでは、その結果の何を信用して何を疑うべきなのかという点で非常に困惑する事になる。もちろん誤差についてはある程度理論的に評価することはできるのだが、いずれにしろ、数値計算は本来の世界を近似的に求めることであり、勝手に創造した自分の世界で好き勝手に遊んでいるだけではどうしようもないということだ。


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