Rukeの日記
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2004/10/29(金) リーマン
http://ocw.mit.edu/OcwWeb/Mathematics/18-04Complex-Variables-with-ApplicationsFall1999/StudyMaterials/index.htm
覚え書き

2004/10/28(木) オイオイ
曲線f(x,y)=0上に束縛された粒子の運動はL=m/2(x'^2+y'^2)-U(x,y)としてラグランジュの未定乗数法を用いれば
d/dt ∂L/∂x'-∂L/∂x+λ∂f/∂x=0
d/dt ∂L/∂y'-∂L/∂y+λ∂f/∂y=0
これらは具体的に
mx''+∂U/∂x+λ∂f/∂x=0
my''+∂U/∂y+λ∂f/∂y=0
結局位置ベクトルをrとして
mr''=-∇U-λ∇f…(1)
∇f・dr=dfだから∇fはf一定曲線に直交する。このこともそうだし、そもそも(1)の形から-λ∇fは明らかに束縛力を表す。

さて、
1.束縛曲線として角丸長方形を選ぶと、直線部分では束縛力は0。角の部分では束縛力は有限。この事から明らかなようにλは定数ではない。
2.x^2+y^2=l^2なる単振り子について立式するとx方向が
mx''=2λx
となりλが定数なら、x方向の運動が三角関数で書けてしまう。しかし一般に単振り子の運動の厳密解は初等関数で欠けず楕円関数が必要。また、1.との関連で言えばエネルギーの保存から速さを求めて円運動に必要な向心力mv^2/rを求めて重力の向心成分を加味して束縛力を決めた結果とも一致しない。
3.そもそも普通の極値問題の場合のラグランジュの未定乗数法の議論を丁寧になぞって変分法に適用すると明らかにラムダは解曲線上で定数ではない。
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物理数学One Point 4に具体的な説明はないが、ここまで書いてあ
れば嘘ではないだろうという記述が。

・束縛条件が
G(x,y,t)=0
という形で与えられている場合λはλ(t)

・束縛条件が
∫G(x,y,x',y',t)dt=K
という形で与えられている場合はλは定数

詳しい説明は書いていないけど、普通の極値問題に対する未定乗数法とのアナロジーで「束縛条件の数」を意識して考えれば十分自然だ。

「量子力学を学ぶための解析力学入門」での等周問題の例題はこの二番目のケースなので間違ってはいない。一方、授業で扱った単振り子は一番目のケースなのでやはり間違い。

2004/10/27(水) デビル
http://review.messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=movies2&action=m&tid=m319020&sid=2077605574&mid=3744
酷評を耳にすればするほど見てみたくなるのはどういうことだろう。。

2004/10/25(月) ニャルホド
ふ〜ん。束縛条件の下で変分原理を扱う場合にラグランジュの未定乗数λを導入すると、これは定数ではないんだ。

2004/10/20(水) オヤスミ
今日は五時限目しかないので台風を機にお休み。演習問題を片付けた。う〜ん、螺旋階段って回転面というのだろうか?散々悩んだのだけど、U(r)がrの単調増加関数って記述は、|r|の単調増加関数の間違いだろう。そうでないと、U(0)=0,U(+inf)=U_0って記述が何となく居心地悪いし、それ以前に有効ポテンシャルエネルギーのピークが一般に求まらないので答えが計算できなくなる。物理的に問題があるセッテングではないから日本語で答えることはできるので何ともいえないけれど…。
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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041016-00000014-ykf-ent
ビニール包装で二巻セットが平台に山積みしてあったのを見た時、買い切りになっているって聞いた時にはこの出版社にかなり違和感を覚えたのだけど、こうなってるのね…。
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http://www.media.eng.hokudai.ac.jp/~cgh/research/cdr.htm
確か高校時代の部活のメーリングリストで、CD-Rドライブをホログラムプリンタに活用する可能性について真剣に議論していた覚えが…。特許とっとけば良かった(笑)

2004/10/19(火) パラドクスツー
電磁気の講義の冒頭で先生が「トランスの一方にAC電源を繋ぎ、もう一方は何の負荷も介さずに導線で回路を閉じてしまう。するとこの回路はコイルの部分に有限の電圧Vが生じる。この回路の抵抗を0に持っていく極限を考えると、オームの法則V=IRより電流Iは無限大に発散する。しかし電流が発散する事はないから矛盾。これはどう説明するか」という話をした。これなども、第一原理主義者にしてみれば、説明する前から説明可能であるという確信を持つ事ができる。というのも、電磁場と荷電粒子の運動はマクスウェル方程式とニュートンの運動方程式で完全に第一原理的に記述されるからだ。

実際に第一原理的に時間発展させることを考えると、コイルを貫く磁束は強制的に振動させられるのだから、有限の電圧Vが生じるという部分に問題はない。そして抵抗が0なのだから荷電粒子はいくらでも加速する。よって電流は無限大に発散する。うん、何の問題もない。

というのは間違った考察なのだが、とにかくこの考察は完全に一本道で迷う所がない事に着目して欲しい。

さて、しかし実際には電流が発散してはまずい。そのまずい理由は普通エネルギーの保存から説明される。ところで、そもそも磁場がない時電場は保存場だったが、磁場が変化するとrot Eが生じてしまい保存場でなくなった。この場合エネルギーの保存は電場と磁場を合わせて考えなければいけなかった。つまりマクスウェル方程式の四式全てをきちんと用いれば必ずエネルギーは保存すると第一原理主義者は確信するわけだ。従って、強制的に加えられている磁場以外の磁場もきちんと考慮すればちゃんとエネルギーは保存するはずだ。そう、問題は回路のインピーダンスを忘れていたことにあったと分かる。このように、第一原理主義ではパラドックスと呼ばれる物は生じたと同時に解決される。

ところでここまでの議論は第一原理主義でパラドクスががいかに解決されるかを端的に表すためにラフに行ったが、この回路では常に一定の電力供給があるから電流が単調増加する事は(もちろんここまでで議論したように自己インピーダンスにより抑えられるのだが)エネルギーの観点からは問題があるわけではない。実は、オームの法則V=IRは、電流Iが流れると電圧降下Vが生じる原因-結果関係を表しているように見えるのだが、マックスウェル方程式を良く睨んでみればそんな馬鹿な事があるわけがないことが分かる。

実はこの種の関係式は定常電流が満たす関係式なのである。この種の関係式は回路の時間発展を表す第一原理的な式として扱われるが、実は「定常状態が満たす条件式」で、時間非依存のシュレディンガー方程式やポアソン方程式に近いものだ。従って定常状態でなければオームの法則は当然満たされない。普通回路の時間発展を計算するときは定常電流が実現する時間スケールに対して回路の変化が十分ゆっくりだと仮定して計算している。

このように、第一原理主義的な視点から法則の上下関係を意識することは、一般の問題解決には役立たないにしろ、パラドックスの生じる余地を与えないという重要な意味をもつ。

2004/10/18(月) パラドクス
物理学で第一原理的に説明できない法則はごくありふれた物だ。ある法則が第一原理とは独立に何故か成り立っている物のようだ(=神様がその法則を成り立たせるよう恣意的に初期条件を定めたか、あるいは時間発展のメカニズムという考え方が幻想だということになる)、とか、第一原理と矛盾する物のようだ、という話題は物理学者を不安にさせるが、一度その法則が「第一原理による時間発展の結果として自ずと実現するのだろうと」期待できるようになれば、物理学者は十分に安心し、それ以上の説明を殊更に求めず、また求めるとしてもそれはそのような説明があった方が便利であるためで物理学の多くの研究対象の一つとして扱われ特別視はしない。

このように、第一原理主義は必ずしも実際的な意味を持つわけではないが、確かに物理学における心の拠り所として機能し、確かに物理学の発展の原動力となっている。

そして物理学者達自身がこのような経緯を辿ってきたのだから、僕ら学生が、突然「分子レベルの物理では何はともあれ波動関数なのです。そうすると実験とあうのです」と言われ、調和振動子や水素原子の固有エネルギーと固有状態を求める煩雑な計算をさせられて釈然としない思いを抱いたとしても、それは十分に正当な物だと思うのだ。

まずシュレディンガー方程式を見せ、大きな系に埋まっている部分系ではほとんどいつも基底状態を取っていて、基底状態を取っていない時はほとんどいつも第一励起状態にいて、、、といったことを単にストーリーとして述べるだけでもだいぶ状況は変わるだろう。シュレディンガー方程式にニュートンの運動方程式程の万能性を期待するのは(といってニュートンの運動方程式も大して役に立つわけではないが)問題だが、突然確率規則や「物理量は演算子になります」といった古典的な物理量を第一に記述する前にまず状態としての波動関数を紹介すれば量子力学はもう少し受け入れ易いものとなるはずだ。今の量子力学の教科書は、言わば電磁気学の教科書の一ページ目にポアソン方程式△φ=-ρ/e0が書かれていてその後の一章が丸々と様様なマニアックな境界条件と電荷の配置の下での解き方に割かれているようなものだ。

もう一つの第一原理主義の効用はこの下ではパラドックスが生じようがないということだ。何故なら第一原理は主張というよりはメカニズムの記述だからだ。特に第一原理から直接的に導かれる幾つかの法則について、それを満たさないように思える状況が浮上したら、実際に第一原理に従って系を動かしてみればよい。そうすればまず間違いなく、その法則が実際に満たされている事が観察され、その時間発展の過程を観察すれば満たさないように思えた考察の誤っていた点が明らかになるはずだ。第一原理主義者ならこの点について実際に第一原理計算を行うまでもなく確信や期待を持つ事ができる。

もちろんそうではなく、実際にその法則が満たされないことがわかるかもしれない。その場合時間発展の過程を観察すれば、その法則を導く議論のどこが間違っていたのかを見出せるはずだ。致命的な勘違いをしていたのかもしれないし、ラフな議論で検討しなかった例外的な条件が満たされてしまっているのかもしれない。さらに、実際にその法則が満たされない例が観測されて、しかし第一原理計算ではそれが再現できない、というか第一原理から導かれるこの法則はその第一原理の下での時間発展では確実に成り立つはずだから明らかに何かがおかしい、、、となれば、単に第一原理の修正の必要が生じるだけだ。

第一原理から導くことが難しいほとんど独立に記述されるような法則については事態はそれほど単純ではないが、しかしやはり第一原理主義は拠り所となる。つまり、そのような法則が満たされない現象が見つかったり、二つの互いに相反する主張が得られた場合も、第一原理計算をすれば何を修正すれば良いかが判明するはずだ、と期待できる。

普通パラドクスは「現象を観察すると、必ずこれこれこういう事が成り立っている」という類の法則が乱立していて、十分な知識がないとそれらの間に互いに関連性を見出しにくく、それぞれが突発的な主張に留まっていて、それ故にそれら全てがいつも同時に成り立っているとは信じがたいという背景の下で提出される。

このためその「解決」を説明されても、法則を縦横無尽に組み合わせる議論の過程を矛盾が生じない地点で恣意的に止めているのではないか、という疑いが消える事はない。そのような説明をいくら聞いても、その理論体系が(実際の世界を正しく記述するか否かはともかくとして)矛盾を含まないという確信が築かれることがない。

例えば相対性理論は、それ自身は一貫した理論だが使いやすくするために、いくつかの結果がニュートン力学に対する修正として記述され、相対性理論の特徴をセンセーショナルに訴えるため一般に流布してしまっている。そしてそこにパラドクスが多く提出される土壌がある。量子力学についても似た状況なのは言うまでもない。

このようにパラドクスは様様な一見互いに独立した法則が同じレベルに乱立しているように見えてしまう状況から生まれる。しかし第一原理主義においては法則間に上下関係が生まれるからパラドクスが生じる余地がなく、問題が生じても単に修正するだけだ(あるいは、少なくともどこかを修正すれば問題は解消するはずだ、と期待できる。)。

2004/10/17(日) ヨリドコロ
それでも僕が第一原理主義を物理学の教科書や解説書の始めの方の段階でもっと強調すべきだと思うのは、結局の所決定論的世界観は物理学の基本であり拠り所であるからだ。神様がOOの法則やXXの法則を満たすようにこの世界を作ったからそれらの法則が成り立っているのだというのならば世界を理解しようとする我々の試みは徒労に終わらざるを得ないだろう。しかし我々の世界があるメカニズムによって駆動されていて、その結果としてそれらの法則が成り立っているのだとする認識は、例えそれらの法則を第一原理的に説明することができなくても、物理学において大きな精神的な支えになる。

例えば量子力学は、多くの哲学的議論を誘発したが、今では哲学的視点に依存したような物ではないことが分かっている。しかしながら細かい話は飛ばしてさっさと本題に入るためそういった話は「物理学では理論の正しさは実験で決めるのであり、量子力学はきちんと実験で確かめられているから正しいのだ」などと済ませてしまう。それは僕らに釈然としない物を残すのだが、その感覚とは結局の所、量子力学の建設に際して物理学者達自身が経験した物と同じ種類の物だ。つまり、量子力学に第一原理が見当たらない事が困惑の原因となる。

特に粒子についての状態ベクトルは同等の情報を(複素)関数に負わせることができる。初期の量子力学はこの波動関数と呼ばれる関数で記述された。関数という物は結局の所ラベル付けされた数字の列であり、無限次元ベクトルとして捉えることができるが、これが関数として認識されていたため、状態とは粒子の位置や速度の事であり、これらはミクロな現象では何故か確率的な振る舞いをし、その確率分布や期待値を計算するための道具が波動関数であるという風に捉えられてきた。しかしそこで判明した法則は全て第一原理的な物ではなく、波動関数に対するある種の数学的な操作が何故だか特定の意味を持つということだった。第一原理的でない法則は別段珍しいものではないが、それにしても固有方程式という特別な微分方程式を満たす波動関数を求めてみるとそれが与えるような確率分布だけが実際に実現するとか、波動関数の特殊な積分が運動量の期待値を与えるといった主張は物理学者を困惑させた。人間が勝手にやる数学的操作が意味を持つように世界ができているとは思えない。もっとこれらの確率分布などを与える第一原理的な法則があり、それによって定まるような事物を計算する便法が、先に見つかってしまったのではないか…。

この疑問は波動関数の時間発展を与えるシュレディンガー方程式が得られてなおしばらく残ったが、波動関数こそが状態の記述であると考えることでほとんどすっきりとした解決を見た。一つだけ残った問題は、古典的な物理量の測定値が確率的にばらつくことの説明ができそうにないことだった。何故なら、Aという物理量を測定してaという値を得た直後にもう一度測定を行うと今度は確率的にばらつかずにaが必ず得られるからだ。これはつまり測定によって系は確率的にある意味で古典的とも言える状態に変化したということで、シュレディンガー方程式は決定論的だからこれはおかしい。このこと、つまりシュレディンガー方程式による時間発展にどんな極限操作を施しても量子力学の確率規則が得られない事はフォン・ノイマンが厳密に証明し、彼は測定行為(さらには人間、意識といったもの)を特別視した量子力学の一般的で数学的に満足のいく形式をまとめた。従ってこの体系は測定の問題を除いてはもはや哲学的な立場に依存するものではなくなった。

こうして量子力学は第一原理的な記述を獲得したが、測定の問題だけが残った。この問題は長らく幾つかの哲学的な解釈でお茶を濁される事になったが、結局当の物理学者達自身が測定の過程を第一原理的に記述したいという欲求を無視することができなかった。何しろ測定は、そして我々人間は単なる現象にすぎないのだから、測定者、測定機、測定される系の合成系を時間発展させれば測定の過程が引き起こされるはずであり、その結果として確率規則は説明されるべきだ。また、物理学者が実験をして測定するということは我々の世界で日常的にあらゆる場所で起こっているというわけではない。例えばダブルスリットの実験では写真乾板を観測装置として捉えることもできるし、写真乾板をも観測される対象として捉えることもできる。ところがいずれにしろ光子が写真乾板に達した時点で系の振る舞いは古典的になり、ほとんど確定的に一つの粒子が感光する。そもそも我々が観測するまでもなく、例えその根底に量子力学があろうとも宇宙はほとんど至る所で古典的に振る舞うのであり(だからこそ我々は長い間量子力学に気づかなかった)、測定とはそのような量子系が量子力学的な性質を失う特に珍しくも無い過程を人為的に過激に引き起こした物として捉えるべきだ。

そしてこの観測の問題は現在では非常に面白い状況にある。実は量子力学的世界では世界を部分系に分けたとしても、それらは古典論に慣れた我々が直感的に感じるよりも、曖昧な言い方で、非常に強く結合する事がわかってきた。そしてその事を念頭に測定問題を考察し直すことで、確率規則が量子力学の時間発展の規則と少なくとも矛盾しないことが分かっている。しかしながらそれ以上の成果はまだ完全な物ではない。つまり測定の過程を時間発展の規則によって上手く説明しようという試みはごくごく部分的にしか成功していない。


面白いのは、これによって、物理学における観測問題に対する興味が、なくなってしまったわけではないが、数ある興味深い問題のうちの一つという程度のレベルまで落ちてしまったことだ。かつてはこの問題は量子力学にとって致命的な問題となり得る問題だったが、今ではむしろ実用的な目的から-量子力学の確率規則は理想的な測定に対する物で、実際の測定を扱うためには測定のもっと一般的な定式化が不可欠だ-研究される一分野となっている。

2004/10/16(土) ヒサシブリ
だいぶ時間があいてしまった。
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このように第一原理と呼ばれる法則は世界の作り方を与えてくれる。それは一つには我々の世界を模した擬似世界の創造であり、さらには、我々の世界と共通の枠組みの元で作られる独自の世界でもある。

第一原理主義には、ここに由来して狭義の第一原理主義と広義の第一原理主義があると言えるだろう。

狭義の第一原理主義とは、究極の状態空間Sと、状態sの時間発展ds/dtを与えるf(s)のみが必要な知識であり、それのみを用いてあらゆる現象を説明できるとする考え方だ。これだけだと還元主義と呼ばれる主義と余り区別がつかないが、第一原理主義者は特に第一原理計算と呼ばれる計算を重視する。これは先に述べたような方法で実際にsをf(s)を用いて時間発展させることであらゆる知見が得られるという考え方だ。例えば分子の構造は基本的には観測してみなければ分からない物だが最近ではコンピュータを用いてかなりの部分が予測できるようになってきた。しかしこれはいくつもの経験的な法則を現象論的に組み合わせる物で要は類似の現象からの類推を上手に行っているにすぎないというのが第一原理主義者の不満である。彼らは電子と核子を適切にばらまいてシュレディンガー方程式によって時間発展させれば自動的に分子の構造に至って定常的になるはずだと期待する。これがどうしても近似的になるため、従来は「計算精度が十分高くなれば第一原理計算以外必要なくなるだろう」という期待を拠り所としながら還元主義的な議論すなわち「これらの経験的な法則といえども頑張って数学を整備すれば第一原理から説明できるはずだ」を行っていたのが、近年コンピュータの計算能力が飛躍的に高まって、第一原理計算へ過剰な期待を寄せるようになった。

広義の第一原理主義では、第一原理と呼ばれる法則が状態空間Sやf(s)に自由度を残している事の価値は認める。しかしながら彼らはやはり、時間発展の直接計算を神聖視する。つまり、例えば太陽の回りを周回する地球の運動を考える時に地球を構成する全ての微小粒子の運動方程式を考えたり、全ての電子や核子の波動関数の時間発展を考えたり、さらには量子場まで持ち出したりする必要はさすがに主張しない。地球の動きを記述するにはその重心の位置と速度(運動量)で十分だ。しかしながらとにかくニュートン力学の一般的な処方箋に従いこの重心の位置と速度が従う運動方程式を書くことができる。そしてそれが書けるのならばそれ以上物理や数学の議論は必要は無く、実際に時間発展させてみればよい、これが彼らの主張である。

このような考え方には致命的な問題点がある。
最大の問題点は第一原理計算は実は何も教えてくれないということだ。
例えば地球を運動方程式に従って時間発展させれば楕円を描く。おお、すごい。だがそんな事は地球の運動を観測することでとっくの昔に分かっていることだ。

つまり、第一原理計算は世界の真似をすることで、それはもちろん、世界自身こそが一番上手く行える事だ。第一原理計算は実験が難しい状況や観測が難しい過程を観察する目的で実験の代用にはなるし(数値実験と呼ばれる)、例えば渦巻き銀河が実際に重力の相互作用のみで形成される事を示すことで第一原理の正しさ(あるいは特定のモデルの正しさ)を確認する役には立つが現象の背後にある構造を浮き彫りにしてその理解を図る理論的アプローチにおいてすぐに役に立つわけではない。

他に細かい技術的な問題として誤差の評価やその影響の見積もりが難しいことがある。数字上の誤差についてはある程度解析的アプローチで見積もることができるが定性的な結果の有効性は簡単な問題ではない。

例えば最近数値積分で注目されているシンプレクティック法というものがある。ニュートン力学から発展した解析力学では状態空間Sを相空間または位相空間と呼ばれる抽象的な空間にとり、時間発展を与えるf(s)にいくつかの要請を行う。シンプレクティック法では、もちろん近似計算を行うのだがその結果が解析力学の要請を満たすあるf'(s)があってこれによる時間発展に厳密に一致するという物だ。従って、この計算結果はもちろん本当に欲しい答えとは異なるが、何を計算しているのか知らない人間が見れば、物理的におかしな所は何もないという結果になる。特に標語的に言われるのはこの方法ではエネルギーが保存するということだ(普通の近似計算ではエネルギーは大抵増加し続けたり現象し続けたりする)。これはf'(s)に対応するエネルギーE'(s)があってこれが厳密に保存し、本来のE(s)とE'(s)の差が有限であるために、E(s)は本来の値付近を振動するものの、発散したり散逸したりすることはないというものだ。

しかしこの性質は重要な物であるが無邪気に喜べるものではない。精度を良くしたためにエネルギーが保存するのではなく、振動するのだが他の理由によりとにかく発散しないというのならこの計算は一体どこまで信用できるのか。正しい結果とは全く異なる滅茶苦茶な振る舞いをしながらとにかくエネルギーだけは保存しているという疑いを持たなければいけない(事実このアプローチではどんなに刻み幅を大きくしてもエネルギーは保存する)。結局エネルギーが保存するからといっても必要な精度を得るために刻み幅を十分小さくする必要は残っている。それならば、エネルギーが保存するのは確かに嬉しいが、どうしてもエネルギーに保存して欲しいというほどのものではないということになる。むしろ、我々は未知の結果を知るために計算を行うのに、その結果が間違ってはいるが物理的には全くおかしくないというのでは、その結果の何を信用して何を疑うべきなのかという点で非常に困惑する事になる。もちろん誤差についてはある程度理論的に評価することはできるのだが、いずれにしろ、数値計算は本来の世界を近似的に求めることであり、勝手に創造した自分の世界で好き勝手に遊んでいるだけではどうしようもないということだ。

2004/10/11(月) ゾクゾク
このような第一原理的法則のf(s)は数学的にはsの時間微分に一致するから
ds/dT=f(s)
という形に書かれるのが普通だ。しかし、この種の法則が状態を時間発展させるメカニズムを背後に想定している事を考えれば
s(T+ΔT)〜s(T)+f(s(T))ΔT
Δs〜f(s)ΔT
ds=f(s)dT
等と書くほうがこの視点が表立つ。

さて、例えばニュートン力学では状態をs=(x1,v1,x2,v2,,,)と記述し、第一原理は
ds/dT=(v1,f1(x1,x2,,,)/m1,v2,f2(x1,x2,,,)/m2,,,)
と書かれる。これは運動方程式と呼ばれる式だ。ここでf1,f2等は力と呼ばれる状態の関数でニュートン力学の形式上はv1,v2等にも依存して良いし、例えば初等的な練習問題でも速度に比例した空気抵抗等は頻繁に現れる。しかしニュートン力学では普通、そのような力も全て詳細に見ればx1,x2,,,だけで説明がつくと考える事が多い。この事は状態はs(x1,x2,,,)だけに見えるのに、これを状態の記述として採用すると決定論的にならないという、ゼノンの矢のパラドクスにまで遡る問題がニュートン力学では形式的にしか解決されていないということであり、その歪さを露わにする意味でもこのように書いた。

重要なことはニュートン力学では力が状態のどんな関数であるかは指定されない。ニュートン自身が万有引力の法則を提出したが、これは全てが重力で説明できるという主張ではなかった。むしろニュートンは重力を遠隔力として少し特別な物と考えた。今では力というものはいくつかの基本的な力の組み合わせであるだろうと考えられているが、運動の基本法則のこの表現はそのまま残っている。その理由はいくつかあるが大きな物は、世界全体に対する法則は使い物にならないということだろう。つまり、我々の世界はあるメカニズムを内在していて様様に時間変化するのであるが、この世界の内部にあるあれこれの組み合わせとしての独特のメカニズムを内包した独立した世界を考えることができ、運動方程式はそれをも記述できるということだ。

#部分系を完全に世界全体から切り離すことはできないから、ここでもまた連続性が重要な役割を果たしている。

ところが運動方程式がこのように「力」という未定部分を残しているためにこの法則は世界の作り方の処方箋という少し大それた意味を持つことになる。つまり世界を作る上で創造主が決定しなければいけないことは力という状態の関数であり、その上で運動方程式に従って系を時間発展させるメカニズムを造ればよい。

さて、今度は量子論だ。量子論において状態空間とは一つのヒルベルト空間であり、状態はその一つの元(状態ベクトルと呼ばれる)。その詳細は省くが、とにかくその時間発展はシュレディンガー方程式
i h dψ/dt=H(ψ) (hはプランク定数/2π)
で記述される。ここでもハミルトニアンと呼ばれるHは指定されない。量子論が主張するHに対する唯一の制限はこれが自己共役であるということだ。左辺にあるi,hは単なる定数であり、H'(ψ)=H(ψ)/ihとでも定義すれば
dψ/dt=H'(ψ)
となる。もちろんHに対する制限はH'に対する主張としても書くことができるのであるが、量子論では自己共役と呼ばれる性質は基本的な役割を果たすため、H'の中の自己共役な部分だけを特に抜き出すためにiが外に出ているに過ぎず、またhについては古典論との対応を見やすくするという目的があるが、つまりは歴史的なもので量子論の理論形式上は必要ない。こうして見ると、決定論的でないという事が殊更に強調される量子論であるが、実は物理学史上最も決定論らしい決定論である事がわかるだろう。

ここでもシュレディンガー方程式は世界を作る手続きを与えてくれる。すなわち量子論に従う世界を作るとは、
1.ヒルベルト空間の決定
2.Hの決定
3.Hに従って時間発展するメカニズムを造る

この種の基本法則が物理学者に要求する研究の方針はその未定部分、すなわちfやヒルベルト空間、Hの決定である。物理学の一つの究極の夢は完全なfの決定であり、究極のヒルベルト空間と究極のHを得ることだ。しかし、これらの基本法則が大きな未定部分を持っているためにもう少し柔軟な行為が許される。すなわち、例えばニュートン力学ならば対象とする系の状態をいくつかの代表的、あるいは仮想的なx,vで近似的に記述し、その時間発展を何らかの力fで説明することで現象の理解に繋げようとすることだ。これはモデル化と呼ばれる。

さて、このように世界の作り方を与えてくれる第一原理は、やはり他の法則同様問題解決のための一般的手法を与えてくれるわけではない。つまりこの法則の最も直接的な使い方は世界を実際に作ってみることだ。これは第一原理がメカニズムそのものだからそれを踏襲すればよいように思えるが、瞬間とその直後というものを我々が扱えないために完全な世界の創造は難しい(あるいは世界自身の力を借りる方法がある。これは実験という行為そのものだ)。しかしながら
s(T+ΔT)=s(T)+f(s(T))ΔT
を世界の模倣としての我々のメカニズムとして採用することができるだろう(ds/dT=f(s)という式は微分方程式と呼ばれる方程式でありきちんとした数学的議論により導かれるもっとまともな近似法がいくつもある。ここに示した方法はオイラー法と呼ばれ、微分方程式の近似計算としては最も愚直で性能の悪い方法だが、ここでは時間発展のメカニズムを強く意識したいのと、近似の詳細はどうでもよいのでこうしておく。)。
つまり、s(T)があってそのΔT後の状態を知るにはf(s(T))ΔTをs(T)に足してやればよい。それを次々と繰り返すことで我々の世界は駆動される。

2004/10/10(日) ゾク
車の練習。大学の方まで行った。疲れた。
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第一原理といわれる法則は決定論という考え方と切っても切れない関係にある。

決定論とはすなわち、瞬間の状態がその後の全ての結果の原因となるという最も単純な原因-結果関係に基づいて世界を理解しようとする試みで物理学の最も基本的な視点だ。実際の所物理学では決定論が成り立たないように見えた場合、つまり同じように見える状態がその後異なる時間発展をした場合、状態を特徴付ける知見が完全でないため異なる状態が同じ状態に見えたのだと考える。決定論が「全ては既に定まっている」という物理学の盲目的な主義であると捉えられる事があるが、決定論は主義というよりは物理学の世界を理解する上での方針であり、探求が永遠に終わらない可能性はあるものの、それ自身が否定され得るものではない。物理学者は神様がサイコロを振ってチェス盤の駒を進めている可能性を否定しない。ただ、サイコロと神様を状態空間の自由度に付け加えるだけだ。

#実の所物理学の発展の歴史はほとんどこの状態空間の拡張にこそあるのであるが、話がややこしくなるので以下ではそれは忘れる。

決定論に従えば
s(T+T_0)=f(T,s(T_0))
なる状態から状態を得る写像fがある。従ってこのfは物理学が知ろうとする法則たる資格を持つように思える。しかしこのfは「アヒルが壁に向かって猛スピードで走っていたらしばらくすると壁に激突する」とか「すっごく重い星があると、内圧が保てなくなった後ブラックホールになる」といった現象そのままの記述を際限なく集めるしかなくなる。「星間ガスが集まってしばらくすると太陽系が出来てしばらくすると地球ができてしばらくすると人類が誕生する」という記述が、人類の誕生について何らかの理解をもたらしてくれるとは考えがたい。

そこで普通物理学では決定論に時間的な局所性を組み合わせる。

実は近年明らかになったカオスという現象がこの事のもっと直接的な動機となる。決定論という見方はそのままでは「もし世界が過去のある時点での状態に回帰したなら、同じ事が繰り返す」という事しか言わない。しかし世界が過去のある時点での状態に完全に回帰するとは考えがたい。つまり上記のfは本当に、宇宙開闢以来のストーリーの記述そのものとなってしまい、我々に何ももたらしてはくれない。決定論は状態空間の部分空間への分割とか空間的な局所性、また対称性といった概念を導入し状態の「類似度」を比べられるようにした上で連続性を要求して初めて意味を持つ。連続性とはこの場合、より似た状態から出発した程より似た結果が得られるという事だ。ところが実際には、我々の世界はどんなに似た状態を用意しても一瞬似た時間発展をした後は全く異なる時間発展をするという性質を持つ事が分かってきた。つまり先に示したfを記述しようとすると、あらゆるs(T_0)について個別の記述が必要となってしまい、fを知ろうとする事は物理学の方針としては全く不適切なのである。

さて、決定論に時間的な局所性を組み合わせるというのは、ある瞬間の状態がその直後の状態を決め、その連鎖によって未来の状態が最終的に決まるのだという見方だ。これはラフに書けば

s(ある瞬間)

s(その直後)=f(s(ある瞬間))

と、ある瞬間の状態に基づき直後の状態を定めるメカニズムを想定するということだ。先の見方とこの見方は数学的には違いはないが、状態を時間発展させる手続きを想定し、その結果として現象を捉えるこの視点は世界に対する一定の理解を与えてくれる(ように思える)。

ここでラフに書いた関数関係はもし時間が離散的ならばs(n+1)=f(s(n))と書けるが、実際には、当面我々は時間は連続的であり、状態も滑らかに変化すると考える(ここには先ほどの決定論が連続性とセットで意味を持つことも含めていろいろと細かい問題があるのだがとりあえず忘れよう)。この時s(その直後)を上手く記述することは数学的に少し難しい。微小変化dTといったものを導入してもよいが、ここではある瞬間とその直後が関数関係で結ばれるのならばある瞬間とその少し後もラフな関数関係
s(T+ΔT)〜f(s(T))ΔT+s(T) (0<ΔT<ある程度小さい)
で結ばれると考えるのが時間発展のメカニズムの空気を残していてかつ初等的だろう(とは言え微分の知識が全くなければこの一次の関数関係を納得するのは難しいだろうがそれは認めて欲しい。。と、ここで衝撃的な読者層が明らかになる)。

とにかくそうすると、このf(s)こそが、法則の名を関するにふさわしいということになる。

2004/10/09(土) ダイイチゲンリシュギ
第一原理主義という言葉がある。これは第一原理と呼ばれるある種の物理法則を特に重視したり、それのみを使用することであらゆる理解が得られると考える傾向を揶揄した物で、もちろん宗教における原理主義のもじりだ。

物理法則の多くは、直接的には「現象を観察すると、必ずこれこれこういう事が成り立っている」という事を言っているから、そのままでは問題解決における指針を与えてくれない。つまり、直接的には何か現象を観察して、「ああ、確かにこの法則が成り立っているな」と確かめ感心する事しかできない。実際に何かある現象を説明しようとしたり、何らかの知見(そのうちのあるものは新しい法則になりうるし、あるものは予言と呼ばれる)を得ようとする場合には、論理的に一歩踏み込んで、「この法則が成り立っているはずだから〜」と考える。この論理的飛躍は大したものではなく、誰でも瞬時にできることだし通常誰も意識したりしないが、大きな問題がある。それは、どの法則をどのように組み合わせ、どのように議論を展開すれば目的を達成できるのか、その一般的な方法論が全く明らかではないことだ。

もちろん、物理学者は一種のプロフェッショナルであり、一般人の持ち合わせない独特のセンスでもって縦横無尽にこれらの法則を使って豊かな議論を行い、またさらなる豊かな議論を可能にする有用な法則を見出す事を期待されている。

だけれど問題は、天才と呼ばれるような研究者であろうとも、四六時中ひらめいているわけには行かないということだ。それでも物理学が自然の神秘を暴こうとするロマン溢れる道楽行為であるならまだ良い。しかし物理学を実際に何かに用いようとすればこれは問題となる。何かのために物理学を用いようとした時に、一々天才が必要で、しかもその天才が天啓を得るまでただじっと待っているしかないのだとしたら、その物理学は余りにも使い勝手が悪すぎる。

物理学の最終的な目的はあらゆる自然現象を理解するできる限り一般的な視点を得ようとするものだ。自然現象にはあらゆる階層で多くの法則を見出すことができる。現在ではミクロの方向に掘り下げるだけでなく、階層を登って行く事さえできる事が分かってきていて、誰もがどちらの方向にも終りはないのだろう、という予感を抱いている。ニュートン力学の建設には多くのひらめきが必要だった。原子、電子レベルでの現象を理解する量子力学の建設にはやはり多くのひらめきが必要だった。これくらいまでならまだ許せるしそこに現れる天才達を無邪気に称賛していれば済みそうだ。だが、場の量子論、素粒子の理論、と来てさらにミクロのレベルに関して超弦理論をはじめとする斬新なアイデアがたくさん提出されている。こうなると我々はいい加減天才とひらめきに食傷気味になる。あらゆる階層の物理法則を統一的に理解する視点こそが欲しくなる。実際今の物理学は、ここには程遠いものの、物理法則を見出す事に留まらず物理法則がいかに世界に芽生えるかという、物理法則の由来すらも議論の対象としている。

しかしそのような一般的な視点というものは結局の所ほんのわずかも得られていないのが現状だ。そんな物が簡単に得られれば誰も苦労しない。結局の所物理学は天才を必要とする。そして僕らのほとんどは悲しいことに天才ではないから、物理学を学ぶ事はできても、実際に何かをしようとして途方にくれることになる。そして、そんな状況でついつい誘惑されてしまうのがこの第一原理主義なのだが、実の所僕はこの視点をかなり大きく評価している。

第一原理と呼ばれる法則は、文言上は先に書いたような他の法則と大して変わらない。しかしその直接的に意味する所は大きく違う。これは世界を時間変化させるメカニズムの雛型であり、世界の作り方そのものが記述されている。従ってこれを用いた問題解決の手順は単純だ。「世界を実際に作って、動かしてみろ」。そう、これが第一原理主義だ。

2004/10/08(金) ケッキョク
結局四日がかりで全部終わらした。こんなに時間かかってたらこれから問題だなー。まあ、演習Iの方は1時間くらいで済んだし、場合によるのか。。div,ラプラシアンの計算は全部展開して地道にやったけど、rotに至ってさすがにやってられなくなり、直交座標の一般論を調べて、div,ラプラシアンも合わせてそれでやった。調べたと言っても、この手の計算は完全に機械的にやっていけば計算はほとんど一本道なのだけど、一つだけdivの計算で∇・(A1 u1)=∇・(A2 u2xu3)=∇・(A2 g2∇q2xg3∇q3)ってのだけは(u1,u2,u3はq1,q2,q3に関する単位ベクトル)計算を天下りに納得するしかなかった。まあ、∇・(AxB)=B・∇xA-A・∇xBなので、rot grad=0,div rot=0に準じる関係として、div(gradφxgradψ)も0だってのは覚えておいて損はないか。

疲れたのでその後ぐだぐだしながら少林寺木人拳を見た。十八羅漢、弱っ。五天皇、弱っ。何だかカンフー映画の少林寺って主人公以外は絶対弱いよなー。よく滅びたり炎上したりするし(笑)。まあそうでなければ主人公が戦う理由がなくなるわけだが。

2004/10/07(木) ギワー
だから計算重いって。
極座標でのgrad,div,ラプラシアン,rotの計算。直交座標だし、計量を使った表現を使えれば楽なんだけど。。。そうもいかないので真面目に計算。てか、div、項多過ぎ。

2004/10/06(水) ンガー
演習問題に時間かかりすぎ。しかも随分とカンニングをした。明日も演習。。。

10月絵日記の続き


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