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2003/11/25(火)
オッデーン
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私は学びの方法を勝手に決めようとする姿勢が嫌いだ。選択授業や少人数のゼミならそのコースそのものが学びの方法を提供するということに当然なるが、大人数の授業や必修の授業は情報の提供に徹するべきだと思うのである。
昔から、生徒を当てて答えさせる、あるいは黒板で解答を書かせるという行為の必要性が全く理解できない。これは小学校ではじめて授業というものを体験した時から漠然と感じていたことだ。―ここでは学んだ、という歴史を作ることしか行われていない。学びそのものは重視されていない―子供心にそう感じていた。
それでも中学校程度までは、自主的に学ぶという行為がまだきちんと形成されていないから、このような授業中心の学びのスタイルは必要だったかもしれない。
しかし高校、大学と進んでいけば、学びというものは自分で行うものとなり、授業は補助的な役割しか果たさなくなる。特にこの過程で生活において学びはそれほど重要なものではなくなってくる。学ばせたい物を学ばせるという形は学びたい物を学ぶという形にとって変わられるのだ。
そういうわけだから、授業や教科書が勝手に学びの方法を指定することには我慢がならない。それを売りにしている授業、教科書ならともかく、ごく普通の内容の教科書にとってつけたような方針が付与されているとその価値は果てしなく減じられる。
つまり、何を言いたいかというとね。韓国語の教科書で第12課までは新出単語のリストが「ハングル 日本語」の形で出ていたのだけれど13課から「ハングル (ご丁寧に空白)」となっていて、予め自分で調べて書き込んでから授業に出ましょう、ってなっているのですよ。
なめとんのかこら。
おかげで小テスト前の一夜漬けにかかる時間が1.5倍になったじゃないか(言いたいのはこれ(死泣))。
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