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最新の絵日記ダイジェスト
2013/08/09 予定の作業をこなす
2013/08/08 最後の焼畑のころ
2013/08/07 他人の力で生きてゆく
2013/08/05 貧すりゃ鈍する
2013/08/04 僕はツールド栄村でいいと思う

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2013/07/31(水) 休んでばかりではいかん
 足寄ではミルクが過剰生産のため捨てられるようになった。50年前の話だそうである。そのことが悔しくて、若い生産者が捨てられるミルクでバターやチーズを作り始めた。今日まで50年の間作り続けられたチーズは今世界で認められるようになったという。そのチーズは「十勝チーズ」としてのブランドを確立した。(byNHK)
 そのころ僕は雪の北海道を見たくてただ、ダラダラと金を使っていた。雪のなかの機関車を追いかけてみたり温泉につかっていたり。
 生きるということと、通り過ぎるということはそれだけの違いがある。ここ秋山だって同じなのだ。
 いつまでも腰が痛いと遊んでいてもしょうがないので今日は家のまわりの側溝を掃除して側溝の蓋を作った。明日はゴミを捨てに行って索道のメンテをしよう。明後日は草刈をしよう。そして土曜日は薪割りを終えよう。動いている内に身体が順応するだろう。

2013/07/30(火) 忘れない内に
 旧仁成館の飼い犬「バン」が昨日20時に亡くなったと連絡が入りました。お線香をあげてこれからの旅と転生を祈りました。
 先日の地区の先輩と話したとき、その方はここの観光などは何にもしないのがいい。もっともだと思う、反面、面白いことも出来るのではないかと話した。「いらない」と言い切る地元の人間の強さをみた。僕などは何年経っても何十年経ても軟弱な余所者だと感じた。彼の云うことは正しいのだから。
 パンクしたタイヤを直し、腰痛に痛み止めの注射を打ち、頭を坊主に刈り上げ、車のオイルを換え、ブリキ屋で煙突の注文時の寸法の測り方を聞いてきた。それと田沢で上山と如来寺を探してみた。汗だくだった。
 上山は下調べで廻っただけだが上山の表示はなかった。如来寺は今は無住でぽつんとお堂だけが立っていた。何の表示もないので近くの「東龍寺」で聞いて見ると、若い僧が詳しくは分からないが如来堂は薬師如来をお祭りしている。薬師瑠璃光如来がその名前だから昔の秋山のお寺の名前が瑠璃光寺というのならそれではないかと話した。
 何かを調べるのはこちらの知識が備わっていなければ進まないなと感じた。

2013/07/29(月) 閑話休題が必要だ
 秋山紀行という鈴木牧之の本は天保2年ころのこの地方の暮らしのあり方やここの風景をよく活写していると思う。一日かけて読んでみるとその中に没入するように感じた。だけれど読み終えて心持が落ち着かない。180年まえの秋山の世界が書かれた本に頭を突っ込むように読んでしまうと当時の人間の厳しさが我がことのように思えて何となく寒いというように感じた。今の秋山と比べることの出来ない時代が僕の周りにだけまだ続いているのではないのかと錯覚した。
 ところが同時に宮本常一の本を読んでいるとここだけでなく日本中どこにいっても同じような厳しさの中で人は暮らしていた。多分日本だけでなく世界中の人間が同じように厳しいなかで暮らしていたのだろう。だからすこし秋山紀行からはなれて本を読んでみようと思った。風を入れないと詰まってしまうようだ。
 一昨日は不意のお客もあって忙しく、腰も完全ではなかったので日記はやめたけれど、昨日も屋敷地区の普請の日で午後からの慰労会に手伝いに向った。もちろん日記どころではなかった。よくなりかけた腰もまた悪くなった。
 ところで昨日、湯で具合の悪い老犬「バン」を見かけた。すっかり瘠せてよろよろしていたけれど先日から見ると落ち着いているようだった。涼しいせいだろうか。

2013/07/26(金) 大日本帝国陸地測量部昭和9年版
 夕立が激しくなった頃ふと目が覚めまして、昼から寝ていたのです。さすれば腰にはいいようでベッドに入って寝たり読んだりであります。別に悪いわけではありませんが身体を休めつつの養生です。先日聞いた話ですが、大昔 上の原と和山の人間が田沢(旧中里村)に出て集落を作ったと書きました。その名前が「上山」。昭和9年の大日本帝国陸地測量部の5万分の一の地図でその場所を見つけました。宮本常一の本によれば山で暮らす狩人も木地屋もサンカも山を下って下の村に出て定住したといいます。ことに飢饉ともなれば平地と比べて山での生活はより困難だったと思います。想像を超えた悲惨さだったと考えます。で、ここから田沢に上山という集落を作った年代やその理由は調べないと分かりませんが、上の原と和山にあったお寺でワオウ山ルリコウ寺?と呼ばれていた寺が人がいなくなったので住民が一緒に仏様を持って田沢の上山にお寺を作って安置したとも聞きました。
 その上山という場所ですが飯山線の越後田沢駅と国道117の間で、道の反対側には如来寺というお寺があります。きっと昔の秋山の住人はその仏様を如来寺に預けたのではないのかと想像しますがこれも調べないと分からないことです。

2013/07/25(木) 草刈なんかやってはダメだ
 ちょっと草刈なんぞをやったのがいけなかったのか悪くなったようだ。やっちゃたのだからいまさらなんにも云えないが見ていると気になってしまうのだ。そこのところがまだまだ幼い。伸び白はないけれども。
 「もと生きるために狩をすることは罪悪でも何でもなく当然のことであった」と宮本常一は言う。そして山の獲物を容易に得させてもらうための山神信仰は古くから存在したと続ける。よく山を歩いて「山ノ神」が祭られているのを見かけたことがある。若い頃はそれらに気を配ることなく歩いていたが宮本常一の本を読んでハッと気付かされた。そこは猟場でケモノミチを行き来する獲物を獲ったところだと。
 秋山の猟師小屋(いまは使われず潰れてしまった)で十二様という猟の守護神を祭る祭壇を見たことがあった。粗末なものだったが十二本の灯明をつけてお祓いをして猟があると灯明を十二本つけたという。もちろん猟はケモノを自分たちが生きるために獲るのだが時代と共に山神信仰は仏教と結びついてくるようになる。そのためにも祈ることが大切になってくるのだろうか。
 この辺りの猟師も猟をやめる切っ掛けのひとつにそういった仏心があるという。

2013/07/24(水) 腰が痛いのでお勉強だ
 きょうは腰の塩梅を見て無理は止そうと昼まで寝ていた。後1日で前半の仕事が終了というのだけれど致し方ない。しかし寝ていると痛みなど感じないのだがそれでは腰の病は治らない。筋肉なのだからすこし動いた方がいいのだ。仕事は無理だが。
 そこできのうから民俗学の本を読んでいる。
 ここ秋山郷でも狩人のことをマタギと呼ぶ。他の言い方もあるようだが。マタギとは二俣になっている叉木からきているのではと宮本常一は云う。叉になっている木の枝を使って獲物をおうからだろう(宮本)。
 昔、杖としては不便だがこれらの杖をもって山に入り、野獣と出合ったときに防御用にとして使われたのではないか。銃を使うようになった秋山の猟では勢子が下からクマをほ〜いほ〜いと声を掛けて追い上げると、追われたクマは決まったケモノミチを逃げあがってくる。それを読んで親方が撃ち手を何箇所かに配置する。ここを矢場(弓矢の時代から)とよんでここでこの杖を立てて銃を構えてこれを撃ったという。二俣になったところに筒を当てて獲物を待つ。今のライフルと違って弾は自分で鉛を溶かして作る。当然真円にはならない。そこで狩人は5m付近に獲物が近づいてから撃ったという。単発の村田銃では撃ち損なえば命に係わることになる。クマは下から追ってくる勢子の声を気にして後ろを振り返り振り返りあがってくるので隠れている狩人に気付くのが遅れるという。
 このあたりでは強くしなりやすい木として「ノリウツギ」を使った。

2013/07/23(火) 腰を痛めたのかも
 仕事ですこし無理をしたのだろうか腰が重い。2時間かかって帰ってこれたのだからたいしたことはないと思う。いま風呂に入って温めてシップを貼ってみた。そろそろ仕事も中休みに入るのだしきょうまでたいしたこともなく過ごせたのだからよしとしよう。
 風呂の中で日本民衆史を読んだ。宮本常一さんの本で父親の蔵書である。山中の道についての話やカツタイ道、ケモノミチ。山の信仰や狩人の話などこれからここの古老を訪ねて話を聞くベースになることと思った。なんにも知らないままで訪ねてもせっかくのチャンスを棒に振ることになる。それにしても何も知らないのだなときょうまでの学び方を反省した。だからゆっくりゆっくりと始めなければならない。間に合うかが問題だけれど。
 湯の「バン」きのうは食事をとったというが目がまるで力がない。よくがんばった。

2013/07/22(月) 禿の恩返しになるだろうか
 秋山には長い時代を通して生きてきた人間の、それぞれの歴史がある。民俗学的に調査もされたのだろうが今その歴史はどことなく埋もれているようにも思う。それだけのことだといえばそうかもしれないが出来たら少しづつ話を聞いてみようと考えている。仕事にも出なければならないしお客さんの世話もある。一気にできることではないけれど少しづつということだろう。
 天明の飢饉は現代においてもこれ以上の噴火はないという大爆発(天明三年七月七日)だったといわれている。このあたりも灰が何メートルも積もり大秋山集落はその影響から来る飢饉で全滅。和山でもかろうじて生き残った男女ひとりが夫婦となってもとの集落から下がった所で新たな集落を作ったとされている。またその後の飢饉と思うけれど上の原と和山の住人が村を出て田沢(現十日町市旧中里村)に上山(両方の名をとった)という集落を作り秋山にあったお寺まで持って出てそこに安置したという話。昔、栃川は小川のような流れであったが時間と共に浸食されて現代のような激しい流れになったということ。また時代は下るが「地蔵栗」という社に伝わる話。まだまだたくさんの歴史があると思うのだがそういったことを古老に聞いてみようと思っている。以前「山の暮らし」を調べたことがあった。それが30ほどあったのだがこれを少しづつ続けていこうと考えている。これはここで世話になった恩返しのようなものである。こればかりはひとりで再開しようと考えている。

2013/07/21(日) 日が暮れると寒いようだ
 きのうの夜は、Tシャツではうすら寒いと客が言い、ストーブをつけて遊んでいる始末。でも寒かった。そう感じた。
 きょう選挙の後津南に出て用事がてら聞くとここも寒いくらいだったと言う。今朝の空は雲がいい感じで夏の青さのなかに流れていた。
 湯の「バン」の具合がどうも芳しくないようだ。きのうも土曜だというのに車がなくもしかしてと対岸を眺めた。昼に草刈の後で訪ねてみると、イヌ医者で注射をしたのだがこの3・4日が山だと云われたということだった。それでもこの「バン」はヨタヨタとであるけれど歩いている。僕にはいつも気を許さない感じだったが湯のご主人には忠実なものだった。山でクマを追い払った話や迷子になった話をこんどいつか聞いてみようと思っている。

2013/07/20(土) 88パーセント
 きのうは高校以来の友人が栄村に住民票を移している関係で選挙方々やって来た。なかなか本音で話せる人が少なくなるなかで僕にとっての重要な友である。ここの地区の区費を払ってもらってここでの生活を始められないかと話す。ここに通じるもっきりや街道の保守や整備に村の感心を注いでもらうべく住人となってもらいたいということだ。年々衰えるだろう体力や経済を考えて先のことをどう準備したら良いのかを考えている。親の介護で忙しい彼に時間が出来るようになった時点のことだがやはり一世帯と二世帯では違うのだから。それは10年経って僕がもっきりやを次の世代に渡した時のためでもある。まだだれも手を上げなくても…
 ギフチョウは75粒の卵から幼虫に孵し9つの幼虫を死なせたがおよそ66ほどの蛹を確認した。そのうち不安があるものがいくつかあるがそれは来春の羽化を待たなければならない。奴さんたちはどんな夢を見ているのだろうかそれとも未来の宇宙飛行士のように蛹というカプセルに入っているだけだろうか。

7月絵日記の続き


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