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2013/06/13(木)
勉強をした
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このところ残りの時間についてよく思いを巡らすようになった。人間は生まれたら死ぬということを思うにつけ人生は死に至る病だということも分かる。古今亭志ん生が話の枕でこんなことを言っていた。「人間というものはオギャーと生まれてきてやがてこの世を去ってゆく。ですからその間というものは楽しみがなくてはいけませんな。殿方はご婦人、ご婦人は殿方。ですからあの武蔵坊弁慶だって女には弱かったですナ。ちょいと弁ちゃん、弁ちゃんあたしと遊ぼうよ…」これ面白くて覚えたものですがきのう読んでいた池波正太郎の小説にこんなことが書いてありました。「人というものは、生まれたるときより、早くも死に向かって歩みはじめている。このことのみは、だれが何としようとも、どうにもできぬことだ」「つまり、死の業を背負って生きねばならぬ。これはひどいものよ。」中略「さいわいに人という生きものは、日常の暮らしにおいて、すべてを忘れる術を心得ている。女を抱くときもさよう。空腹をみたすために汁を食べ、めしをたべているときもさよう。一日の仕事に疲れきって、ねむりをむさぼるときもさよう。世に生くる苦しさつらさを忘れることができるのみか、おのれが死の道をせっせと歩いていることも忘れ果ててしまう」「なればこそ、人は生きておられるのだな」 志ん生の枕にしてもこの大衆文学にしても僕の分からないことを教えてくれる先輩の言葉に頭が下がる。 僕はこう考えた。この頃そう60才を越えたころから楽しいと思うことが少なくなった分残りの人生を考えるようになったのかと。遠い所に旅にでも出てみようか。飛行機なんかに乗っちゃって。色事に励んでみるか。上手いめしでも食べてみるか。みんな卒業したようなものだが、面白いこと楽しいことをじっくりさがしてみようと考えた。
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