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最新の絵日記ダイジェスト
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2012/02/29(水) 日本国有鉄道
 28日青森19:33発羽越線北陸線経由大阪行き寝台特別急行列車「日本海」は連日の日本海側の大雪で運転が取りやめになったと乗車を心待ちにしていた友人から連絡が入った。何でも「日本海」はこの3月で姿を消すということのようだ。確か昭和40年代の初めに秋田から青森まで当時急行だった「日本海」に乗って食堂車でビールを飲んだことがあった。そのときの外は雪だった。
 話は変るがこのところの大雪で飯山線はほとんど毎日運休する列車があると放送が伝える。僕はJRはあんまり好きではなくJNRの頃のぶっきらぼうな職員達の鉄道を愛して止まない姿に安心を覚えたものである。この頃は道を知らないTAXの運転手やコンビニの店員のように愛想はいいのだが鉄道を知らないサラリーマンばかりになったようでつまらないのだ。
 昭和38年1月23日新潟駅を出た上り急行「越路」は折からの大雪吹雪で進むことが出来ず、6日後の1月28日111時間23分を掛けて上野駅にたどり着いた。急行「越路」は上越線の優等列車で当時の国鉄には、その線区の優等列車を何としてでも無事に通過させるという気概が生きていたように思えてならない。たとえば急行「北斗」で青森に向う沿線の駅には当時東北本線の最優先列車を見送る駅長や助役が深夜になっても列車が見えなくなるまで立ち尽くしていたものだ。
 鉄道は子供の夢であってその子供が大人になっても懐かしく思い出す大事なものなのだろう。大雪で初めから運休してしまうことはしょうがないが27日大阪を出た「日本海」であったなら途中で運転を取りやめたりしないで1日遅れでも2日遅れでも青森を目指して走っていてもらいたいと思う。そういう姿が明日を支えると思うからだ。     (寺本光照著列車名大辞典参照)

2012/02/28(火) 晴れれば
 昨日もって来れなかった修理の終えたスノーダンプを2回の分けて持って来た。午後の時だが雪が今日の晴れ間に溶けてズボズボとカンジキを履いた足がもぐる。昨日は寒く湯沢からの道は忙しかったのだけれど今日はまるでうそのように道の雪は溶けている。これからはそんな日の繰り返しでだんだん暖かくなっていくのだろう。それでもまだ2mほどの雪があるので仁成館に向かう道のルートを開発しなくてはならない。これからは雪を楽しむようになるのだ。降ってきたら雪の崖に穴を掘って灯りを点したりしながらお客さんと一杯やるのもいいもんだ。
 ここを出て街なんかを歩いているとすっかりここのことを忘れてしまって昨日のように驚かされるのは僕の頭の出来でしょうがないがここにいいさえすればちゃんと雪と格闘していられる。だから12月から2月まではどこにも出るべきではないのだ。どうもここが僕のベース基地になってしまったようだ。

2012/02/27(月) 雪のなか帰りました
 余裕のない上京で昨日帰るつもりがなんだか大泉の渋滞にかかって嫌になって今朝出直しで帰りついた。ちょっと留守をしただけなのに40cmほどの積雪で寒いものだからさらさらの雪で往生した。車も坂道では空転するし、ブレーキを掛けても止まらないしでまだ2月なのだと実感させられた。
 金曜日は腰に注射を打ったりスノーダンプの修理を頼んだりと土日割引のETC利用の時間調整に大変だった。深夜水上辺りのカーブを走っていたのだが少し感覚のずれがあって運転の低下を感じてしまった。
 ところでユーチューブなる動画サイトがあってそこの「ギターセッション津南」を開いてみてください。ちょっと面白い動画を見ることができます。

2012/02/24(金) 大働き
 昨日今日と暖かい。といっても気温は1度。横一本が付かないだけ気分もプラスだ。
 さてこれからちょっと出かけてくるのでこういう時は大忙しなのである。洗濯をして掃除をして、水の確認をして疲れきったところで腰を上げるのであるがトウキョウに出ることは用事を片付けるのだが何となく敵前逃亡のように考えてしまうのは本当のことだからなのかもしれない。。用事が片付けば月曜日、さもなくば火曜日には復帰する予定である。Nシステムが作動すれば1日くらい日記を更新もしようがさて…

2012/02/22(水) 寝ているのは楽で気持がいいのだが
 元来怠け者なのだろう。寝るほど楽はなかりけり、浮世の馬鹿は起きて働くとばかりに腰を理由にして寝ていたのだがだんだん痛みが変ってきた。腰の痛みから尻の筋に飛んで背中、今日は脇腹と山手線のように動き回る。これは腰が痛いのではなくて気持が痛いのではないかと思い至った。つまり言い訳をつけて寝てばかりいた付けが廻ってきたということではないか。
 体の硬い僕はラジオ体操もどきで身体をほぐして三角小屋や水神様の小屋の雪を掘りに出てタミコの墓を廻って湯治に出かけた。家にいるよりか外のほうが暖かく3日続いた晴天で雪の上も歩き易い。歩いていてもピンと来る痛みも無くなったのだが重い感じは依然として残るがもうそんなことは忘れて雪掘り作業を続けよう。明日頑張れば家の周りはサンダルで歩けるようになる。
 日が暮れてから強い南風が吹いている。今年の冬も峠を越えたのだろう。

2012/02/20(月) 捨て丸一周忌
 ここに捨てられたイヌが切明温泉で面倒をみてもらっていたのだが、去年の今日亡くなった。短毛の小さい犬で外で飼うのはちょっと無理だったのだが施設の屋内では飼う事ができなかった。それでもイヌの世話をしてくれた方にはお礼を言うが、安直にイヌを捨てた人間の問題なのだ。そのイヌを「捨て丸」と呼んだだけの僕にも引っかかるものがズーッとあった。
 去年も今年も2月のこの頃は1番寒い時で可愛そうなことをしたと思い出すのだ。冬には生きものにとって大変な時期で野生のサルもカモシカも必死で暮らしている。僕だって腰が痛い。
 天気が良くその分冷えて−7℃だった。屋根の雪はドンと下がって今年の雪下ろしは終ったんだなと感じている。真っ青の空に煙突の煙がたなびいていた。申告を終えて一本付けながら捨て丸にお線香をあげて許してもらおう。

2012/02/19(日) 早春賦はまだ先のようだ
 どうも腰というより背中の筋を痛めたのだろう。おまけに座り通しで一向によくならない。だから運動で雪を片付けるのだが効果はない。酒も飲まないし川も渡らない。
 今朝方の寒さはきつかった。9時でマイナス8℃。台所のシンクは跳ねた水が凍っているしいい加減しろと叫んだってしょうがない。その代わりに空はきれいに晴れていた。3月になればと今日一日春を引っ張るようにしていたのだがなかなか春は重かった。
 早く申告を片付けて注射を1本打ってもらいに行かなくてはならない。

2012/02/18(土) 大降り
 昨日僕は津南のお店のご婦人にもう雪は峠を越えたと話した。彼女は「本当ですか。信じてもいいのですか」と問われた。僕は太鼓判を押したのだがこの降りである。チョット責任を感じた。いつかランチでもご馳走するか。
 それより寝ていて腰が痛いのだ。これには困ったが病人を決め込んで寝ていた。するとプチンとTVが見えなくなった。この雪で雪崩でも起きてデジタルコードが断線でもしたようだ。こうなると国道脇に配線されていない弱点がもろに出たのだろうと考えた。断線ヶ所が無人の山中ならこれは復旧に時間がかかるのだろうと。何時までも寝ていても仕方がないので食事をかねておき出すとなんということか大降りになっていた。身体を動かしていた方が腰にいいのかとゆっくり雪をかまった。痛いのは痛いがゆっくり身体を使って直したほうがいいと感じた。
 昼は座りっぱなしで申告の準備だったのでどうもいかんが。

2012/02/17(金) 友達が去ってひとりになった
 予報は大寒波だというが僕は呑気なものだ。ただ昨日チョット腰に来たので何処かすっきりしないけれど。友人が帰るので津南まで出た。送り出して買い物をするとまた余計なものまで買ってしまう悪い癖が出るようだ。やはり安直に町になんぞ下りてはいけないようだ。
 腰の具合がグンと進んだようでどうもいけない。ピンピンと腰の筋がはれてきている。湯をもらって膏薬を貼って帰って来る。明日からは税金を片付けなくてはいけないだろう。

2012/02/16(木) 無為自然
 昨日の晩は昔の人々の顔を思い出して寝付けなかった。好きだった人、嫌いだった人、ほとんど忘れていた人が彼の来訪のなかで一斉に浮かび上がってきた。その人たちとのひとつひとつの思い出を想うと気持は乱れるものだ。もう戻らない過去のなかで僕が失ってきた人生の一片を「もし」という括弧で括ってみたらその全てのことの正否を判断できるように感じた。そんな年齢になっているのだと肯定的に思って見た。
 ひとりで今日も飲んでいた。相手をしてくれていたらきっと酔いつぶれていたことだろう。

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