来るなら来てみろ もっきりや
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最新の絵日記ダイジェスト
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2011/04/30(土) フキノトウ
 みんなでフキノトウを探しにでる。道に雪はまだあって所によると50cmほどもあるだろうか。地面の出たところにはきれいなフキノトウがあるがサルやカモシカにずい分食べられている。彼等にしてはようやく食べられる柔らかい食事なのだろう。何もサルと競争して採るほどのこともない。まだまだフキノトウはこれからだ。
 イチゲやイワウチワ、スミレやらが咲き出している。気をつけないとその一番きれいな時を見過ごしてしまう。これから順を追って出る山菜や花々、山桜などを探して歩いてみよう。
 雪解けで川は激しく流れ下っている。昨日は栃川で魚釣りの車を見かけた。残雪を撮る写真家をたくさん見かけるようになった。まだまだ寒い日もあるのだけれど。

2011/04/27(水) 生きて居ればこそ
 外に出るとなんと言う暖かさなのだろうか。きのうの東京よりもずっと春めいている。この分ではギフチョウが羽化してしまうのではないだろうかと思っていると先生から電話が入った。思い切って掘り出してみようということで埋め込んだ鉢の蓋を外した。多分18体ほどあったと覚えているのだが5つほどを取り出してみる。例年のようにきれいな体に見える。これは室内で羽化させてみよう。
 さて、シャワートイレを取り付けるのだが止水栓が面倒でずい分時間がかかってしまった。それでもこれで当もっきりやのトイレは形ばかりだがみんなウォシュレットになった。水道の分岐を掘り出して通水して水漏れを確かめる。残った雪囲い板をしまってから川を渡って湯に入り福一さんのところによって帰って来る。彼が言うにはMロードの取り付け道路まではブルが入ったようだと知らされた。まだ雪が多いようで通れるようになるまではもう少し道が乾かなくてはいけないだろう。
 今日のあたたた…  ! すごい直下型の揺れだった。バリバリドドン。足がすくんだ。まだ遠くで音がする。そう云えば福一さんはこんなに揺れるのだからそのうち鳥甲の裾野に温泉でも噴出すのではないかと。それはいいことだがそれもこれも生きて居ればこそであろう。折角トイレを変えたのだから今は死ねない。

2011/04/26(火) 4月12日の揺れ
 もう歩けなくなった老犬を起こしておしっこをさせごはんを食べさせて家を出て関越に乗った。いいドライブ気分で久しぶりに外に出たせいか爽快だった。おんぼろ車だが良く走った。
 津南に着くと雪は山に後退しているのだが秋山に向うとふたたび雪が近くに擦り寄ってくる。405号は1箇所余震による土砂崩れがあったようで復旧工事が行なわれいる。土砂崩れは収まったということではないようで大きな揺れでもあると通行止めもあると指示看板もあった。
 この12日の余震は大きかったようで食器戸棚からコップや湯のみ、酒瓶などが散乱している。台所の雪囲いが大きくゆがんでガラス戸に当っている。よく割れなかったと思うくらいだ。それにサッシのガラスが何箇所か1〜2cm開いている。どうも大きく廻るように揺れたのかもしれない。僕がここに移ってからは一番の揺れだったに違いない。まだ時々ドド〜ンという音も聞こえるようだがここにいればやることもたくさんあるし、そんな音にばかり気を使うこともないだろう。明日はトイレ便座をシャワー付きに変えて水を通水したり家の周りの片付けや掃除Mロードの確認で忙しくなるだろう。
 そう云えばサクラは沼田でいい感じであった。湯沢や津南では咲き始めで秋山ではサクラのサの字もない。

2011/04/19(火) 春本番
 満足に歩けないのだけれど散歩には3回は連れて行く。この辺もずいぶん変わったと思う。工場はすべてマンションに建て替えられ、子供の数が増え、若い母親が目立つ。
 マンションの管理人がホウキを持って「もう蜘蛛の出る時期になった」と子供に話している。子供はカサで植木にかかるクモの巣をこわしながら行き過ぎる。そうかとよく見渡すとアリやらチョウ、つばめまで目につく。桜を散らせた春が虫たちを安心させる暖かさを教えているようだ。もう少しで用事も終わる。そしたら帰ろう。

2011/04/16(土) もっきりやは異常なし
 津南の友人がもっきりやを見聞してきてくれた。12日の余震を心配していたのだけれど取りあえず気持ちが落ち着いた。ただドーンドーンとつづく地鳴りは収まっていないようだ。雪はR405沿いはだいぶ少ないようだ。もっきりやの周りも1m程だろうということだった。
 もう少しここにいるのだけれど何にもやることがないのは面白くないものだ。

2011/04/10(日) 今年のサクラ
 8日に小金井に向かって関越を所沢を降りた。清瀬から新座、保谷までは良かった。そこから大泉に入ってしまってからが分からなくなってしまう。道沿いにはたくさんの桜の古木が満開だった。二時間ほど迷走してようやく西武線を越えることができた。その時の桜は実にきれいで大きかった。
 多摩川べりに列をなして咲く花は見る人がまばらなせいかいつもの力が感じられない。

2011/04/07(木) 今のうちに家族と逢ってこようと思いましてな
 朝の気温は2℃ほどで外は曇ってはいるけれども春らしいにおいまで感じられる。
 この時期は本当はここにいないほうがいいので、なぜかと言うと気温はいい具合に上昇するのだけれどどこに行ってもまだ雪が多量に残っている。気持ばかりが焦るといったことになる。
 用事でここを出るけれど10日もすれば帰ってくる。東京に行くのだ。あんまり外に出ないようにジッとしていられるように読む本は少し多く持って行く。何しろお金が掛かるところだ。
 では行ってこよう。Nシステムにて少しづつ日記を続けようと思っています。

2011/04/06(水) 故郷を離るる歌
 二日続けていい映画を見た。きのうは「二十四の瞳」木下恵介作品高峰秀子のものだった。小津監督のものも木下作品もよく唱歌が出てくる。これをあの頃子供達が歌うのだ。「あおげば尊し」が唄われ「蛍の光」ではなかった。
 子供の頃に学校で歌った小学唱歌は聞くだけで泣けてくる。きのう聞いた「村の鍛冶屋」の歌詞が僕の頃の歌詞と違っていっこく老爺と言うのだと知った時は驚いた。また聖歌の翻訳ものや、世界民謡の翻案ものに忘れられないいい唱歌があるというのにも感心した。
 明日は職安まわりで東京に向わなくてはならない。そうなると10日は帰れないということになる。これもボランテァなのである。「故郷を離るる歌」でも歌って呑気に放射線を含んだ水でも飲みに行こう。

2011/04/03(日) 右岸は鬼門か
 和山温泉の泉質が目にはいいようでよく福一さんがペットボトルをもって入りに来るようになった。福一さんのところにも温泉が来ているのだが源泉が違うということで盛んにここのお湯のよさを強調する。きょうは湯からのお誘いもあってストーブに当って世間話などをしているとその福一さんが手ぬぐいとペットボトルを持ってやってきた。すると4人になってしまった。「準備が出来ました」とお上さんの声がしてブロック積が始まってしまった。僕にとってどうも北は鬼門のように思えてきた。それでも4・5回もガチャガチャと遊んでいると少しづつその仕組みにも慣れるわけでものの2時間ならばと、このところは諦め気味になっている。高校のころはずい分とはやった遊びだが貧乏で小遣いなどなかったせいか賭けごとになってゆくその遊びには参加しなかったのだが、この歳になって始めるものでもなかろう。だから僕の場合はゲームと言うよりワイワイガヤガヤのほうを楽しむことにしている。どっちみち負けるのなら言いたいことを言った方が気散時になる。と云うことにした。
 中津川の水量は少し増えたようにも思える。だが今シーズン僕は一人の釣り人も見てはいない。

2011/04/02(土) 昭和30年後半
 今回の出来事を友だちと話すことが出来た。やはりそこは長年の友人だ。僕らが中学生だったころの暮らしと言うものは今と比べれば豊かではなかったけれど貧しくもなかった。物の価値もちゃんとしていたと思う。自動車なんかはもてると思ったことはなかったし旅行は混んだ列車を何時間もかけて並んで待ったものだった。でもそんな苦労は僕にいい思い出を残しているし、車で一気に走り抜ける今の旅行とは違っていた。そりゃ何回も出かけることはなかったけれど充分に準備して勉強して出かけたものだった。旧国鉄の職員は何でも知っていて鉄道が好きでたまらない人ばかりだった。夏はランニングやシミーズ姿のおじさんおばさんがうちわをつかって歩いていた。どこの家でも同じようなものを食べていろんなおかずが行ったり来たりしていた。みんな良く僕のことを知っていて何だかんだと話しかけてきたものだ。子供の僕にしたって面倒で煩わしいと思っていたけれど、だからどうということもなかった。隣の家は興味津々でやれテレビを買った、犬がいる。東大に入った。菓子会社に就職した。嫁に行った、子ができたととても賑やかなものだった。子供にしたってガキ大将がそれぞれの家庭の事情まで良く知っていて守ったりしていたものだ。
 その1960年代の時代をこの一年ちょっと旅して電力会社に踊らされないようにしてみるのもいいのかもと僕は友と話していたらずい分と楽になった。
 いくつもの国家がなくなる時代に電力会社のひとつふたつ消えたからって僕らはやって行けるよ。それだけ大変な時代を生きてきたのだから。

4月絵日記の続き


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