来るなら来てみろ もっきりや
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最新の絵日記ダイジェスト
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2011/03/31(木) 罠にはまった
 なんと言うのか雪がダラ〜と降っている。春雪と言うことだ。このところ余震が再発するように感じている。体感地震が日に5・6回起りあの嫌な地鳴りが再発したように思える。また貴重品を身近に置いて逃げを打つ態勢をとって備えている。どこまで続くぬかるみゾ!である。どっちにしてもそこにいてしまった不運は逃げようがない。考えてみれば昭和24年生まれの僕は日本人として今までいちばんいい時代を生きてきたのだからこれから何があっても受け入れるしかないが、子供たちがこの先、この経験でいい時代を過ごせたといえるようになってくれることが目標だと考える。
 と生意気なことを言っているがやっていることは情けないことばかりだ。昼過ぎに湯からお呼びがかかった。ちょうど昼を食べて、いい映画を見ていたのでご遠慮しようかと思っていたが折角のお誘いはなかなか断れない。で、風呂に行くつもりで出たのだがそこには三人の面々が僕を待っていらした。つまり中国式のゲームの員数として参加した。こうなっては下を向いてもいられず言いたいことを言いながら日暮れ前に帰ってきた。どうもあのゲームは慣れないのである。しかし、これもお付き合いと諦めた。

2011/03/30(水) 10年経ったら
 日が暮れて雨になった。今日は終日3℃〜6℃で暖かいと感じる。きのう和山温泉のご主人がマンサクの花が咲いたと教えてくれた。小さい黄色の花で僕のカメラでは写し取れないので止めたけれどその横にはヤナギの芽も銀色に輝いていた。
 サッカーの選手は言う「日本はひとつのチームだ」と。なるほど、がんばろうというフレーズよりいいと思った。そこで僕は考えてみる。ひとつのチームとすれば今回の地震も津波も原発も普天間も3万人を越えるだろう犠牲者も3万人の自殺者も引きこもりもおよそこの国で起っているいろいろな問題も含めて他人事ではいられないということになるのだろう。さーそこでそのチームの末席にいることになる僕はどうやって自分事に問題を引き込んだらいいのだろうか。生死は大事だ、暮らしも大切だ。経済も重要だ、環境も捨て置けない。そして1年は365日もある。これは難問だ。むずかしくなったなぁ〜と酒を一杯口に含んだ。
 まずこの百年をシッカリ学んでみようか。回答は10年先として普通に暮らして少しだけでも真剣に考えてみよう。

2011/03/28(月) タミコもうすぐ春が来るぞ
 雪で出来なかったのだが今日は右岸に渡って手すりを付けた。暖かくなると冬の道の雪が崩れて歩けなくなってしまう。そんな訳で安全な道を作る準備をする。今年は4月に用事ができてちょっとここを離れるので大回りの道は止めて短めの道を作っている。帰る頃には右岸には雪はないだろうから。
 湯に寄って風呂に入った。温泉は何ともいえない。貧乏でも温泉に入れれば上々吉だ。そこで気がついたのだけれどお湯の量が増えたのか内湯が復活して男湯の他に女湯もコンコンと溢れる湯に満たされていた。そう云えばここの湯も中越地震で被害があってそれから営業は止めてしまったけれども、ここの温泉は中津川沿いに湧出するなかでは何といっても一番だと僕は思う。温度と泉質、景色を含めて止めてしまった営業は多くのファンをがっかりさせたことだろう。でも温泉はちゃんと湧き出しているのだから、近くまで来たのなら是非入れてもらってはいいのではなだろうか。この湯船から眺める秋山の春。カツラが芽吹き、山サクラが咲き、ブナの早緑を感じる頃がここの一番の天下であると思うから。

2011/03/27(日) 地震警報と空襲警報の間
食えなきゃ放射能もへったくれもない。どうも原発はメルトダウンを始めたのだろうか。TVの解説をする科学文化部の方の表情が日ごとに暗くなって、怒りにふて腐れるように感じるのは僕だけだろうか。でもまだ諦めるには早いだろう。現場では命がけで作業が続いているのに、当時の原発開発を進めた政治家も学者も技術者もどこに行ったのかさっぱり現れなくなっちゃったな〜。
 考えてみると馬鹿な戦争をおっぱじめて世界を巻き込んで負けて、他国の戦争で再生した僕の生まれた国はこれから真の意味で復活し進化しなければ世界に、亡くなった多くの人たちに恩返しが出来ない。いま僕らは教育や環境、産業やエネルギーすべての係わってくる分野で真剣に、ちょっと笑いながら勤めなければならないのだろう。大変で苦痛ばかりだけれど。と言うのも昨日僕は大きな地震でもっきりやが壊れてゆく夢を見た。夢のなかで僕は結構落ち着いて崩れてゆくここでの暮らしを見ているのだけれどまるですでに死んでいる魂が漂っているように感じた。
 人間にしてもすべての生あるものは必ずこの世を去ってゆくのだけれど戦争や災害で亡くなった何万人の中の一人には出来うるならばなりたくないと思っているのだ。

2011/03/26(土) 軍艦マーチ
 大雪である。50cmほどの積雪で昼に気温は−3℃。きのうの除雪はあんまり意味がなかったかと思いつつ家の周りの除雪を運動した。しかし3月の下旬に降る雪ではないだろう。湯に寄ったらしい福一さんが僕を見たようで「雪は明日には融けるよ!」と電話が入った。「これは体操のようなものです」と返事を返した。
 TVを見ていたら夏目雅子を見た。ずい分前に亡くなった女優だったが忘れていた。人は亡くなるのはしょうがないとしても忘れられるのは辛いものだ。どうしたらこの災害で亡くなった30000人の人生を忘れないでいられるのだろうかと思った。
 今回の被災地をそのまま残したらどうだろうか。遺体を回収した後の三陸沿岸を自然の驚異として後世の日本人に知らしめ、亡くなった30000にも及ぶ人生を検証して伝えていくのである。観光は風光明媚ばかりではなくそこの自然と共に暮らした人間の文化でもあるはずではないだろうか。震災から2週間でこんなことを言えば非国民なのかもしれないが敢えて言えば、人間とはそんなものなのだろう。
 ACの広告がよく流されている。内容はもっともで正義なのだが、どれも生活感がない。だからなんだか遠いのだ。もっと切実なACにはならないのだろうか。東電。
  

2011/03/25(金) 手すりを付けるために
 今日も揺れに起こされた。モーニング余震と呼ぼう。あんまり早い時間でなければ待ってましたなのだ。もう恐くはありません。
 そんな訳で8時には起きたのだ。ただプラプラとコタツにもぐり込んでおかゆを食べた。10時になっても11時になってもそのままで少しボケてきたようだ。13時になって期限切れのラーメンを食べて対岸に渡る。堰堤の上の雪を落として手すりを付けるべく準備を始めた。雪下に置いた単管を掘り出して今日の作業は止めた。明日は単管を設置して歩き易い道を踏んでルートを開く。今の道と比べると倍は歩くが歩き易いはずだ。湯に上がって「麻雀やるか」と言うともうたくさんだと頭の上で手を振った。実はきのう18000点の倍満だかハネ満だかを振り込んだご主人は頭を抱えていたのだ。僕にしては偶然の出来だったのだが。湯に入れてもらってカレーをふるまわれて帰って来るのだが、どうも僕の冬は毎年、被災者のようだとスプーンを使った。

2011/03/23(水) あれがなければ
 積るといっても5cmもあるだろうか。いやに降っているように感じて外に出るのだが雪は降りながら融けていくように感じた。なごり雪のようでうっとりと雪をながめていられるのだが今年はそうも云っていられない。ドーンドーンという山鳴りはほとんど収まったのだが今朝は何回か大きな揺れに驚かされた。以前はドンと一発突き上げるだけの直下型のものだったが今日は短いのだが横に振れるように感じられる。こういったちょっとした変化に何かとんでもない余震が来るように感じてしまうのは気持がそうとう小さくなっているからだろう。話すことと思うことはずいぶん違うものだ。
 東京ではコンビニやスタンドに長蛇の列だといっていた。そしてなんにも無くなった棚を映して買いだめはやめようとコメントが入る。買いだめはオイルショック時のトイレットペパーの話で今の都会では狭い家にそんなに食料を置いている家は少ないのだ。いつでも買えるものは本来は買いだめる物ではない。何も食べるものがなくなったから列に並ぶしかないのだろう。むしろTVの方が逆説的に買いだめを煽るようになってしまうのだ。と僕は思った。そもそもコンビニにはそんなに食料はないのだ。
 きのうは「七人の侍」を見ていた。菊千代が百姓を称して言う言葉がある「百姓は米も麦も酒もないと言う。だがあるのだ床を剥がしてみろ。そこに無ければ隅っこを見てみろ。酒も麦もなんだって出てくる。うそつきでずるいのが百姓なんだ。だが百姓をそんな風にしたのはみんな侍なのだ」ちょっといい加減だがこんなことを確か言っていた。僕らも百姓の生きる知恵とかずるさとか強さを学ぶ時が来たのだ。

2011/03/22(火) 10日たって考えたこと
 神戸の震災の時、兄とよく話したことがある。兄が言うにはこういった災害時には必ず被災者が出る。彼等をまとめてどこかに避難させるために千人ほど収容できる避難船や病院船を平時に作っておけないのだろうか。昔の青函連絡船クラスだったり各管区保安庁に配置させておけばいざと言うときに役に立つばかりか海外の災害時の救援に大きな役割を果たせるのではないかと。考えてみれば神戸の震災から大きいものでも中越、中越沖、今回と5年に一回は被災民の出る地震は起っているのだ。その兄は病気で亡くなってしまったが何時も事あるごとに僕は思い出すのだ。
 きのうはこんなことを思っていた。遠くにいる呑気なひとり者の戯言みたいなもだけれど。
 僕の子供の頃にはよく飛行機がビラを撒いて飛んで行ったものだ。つまらない広告だったが必死に追いかけて拾った時は嬉しかった。日本の海上自衛隊には「ひゅうが」「おおすみ」「しもきた」といったヘリ空母的なものがある。今回は米軍の原子力空母「ロナルド・レーガン」も三陸沖に来たようだ。僕は寝ながら考えてみたのだ。まず地震・津波後ただちに被害地上空にビラを撒いて、生存者の避難している箇所を確認する。そこに空母からヘリを毎日同じ時間にその大小の避難所に送って少しづつの支援を始める。物資は海上を軍の救助船にて空母に送る。マッ救助へりタクシーみたいなものだ。空母のような大きな船なら燃料の確保も物資の仕分けも出来ないものだろうか。そんな支援も10日ほどで今度は避難所船を配置して役割を移管させその間に避難住宅を仮設で作る。そんなことを考えながら焼酎を飲んでいるのだ。
 フランスのTVが同国の救助隊が活躍の場を与えられずにパリに戻ったと報じていた。救助犬が現場に入ることを拒まれたとか日本の消防はタケの棒で救助をしていると。フランスには進んだ機器があるのにと言うことのようだ。如何にもフランスらしい報道だけれど救助はデジタルよりもアナログの方が適していることもある。救助犬を使わせなかったのは担当した役人が法律を噛み砕いて解釈できなかったからだろうがそれでも海を越えて助けに来てくれた隊員には感謝をしている。フランスは遠いんだから。

2011/03/21(月) 映画「東京物語」
 終日雨が降っていました。中津川は雪しろが入ったようで少し水量が増えウグイス色に変っていました。この間解禁になったのですが地元の若手が歩いていただけです。岩魚が一番喜んでいるかな。
 R405はふたたび土砂崩れのようで一時全面通行止めになりましたが直ぐに片側交互通行が出来るようになったということです。昨日まで余震はずいぶんと納まったようでしたが、今日は3回余震があり昼過ぎには震度3の余震がありました。斜面に積った雪が融けるとその上に乗っていた土砂が落ちます。おまけに強い余震がそれを促すようです。
 きのうは小津安二郎の「東京物語」を今年初めて見ていました。すると今回の災害に遭った人たちのこれからと重なってゆきました。戦死した息子とその妻。子供達に会いに行きながら迷惑がられる両親。そしてその疲れから病になる母。ちょっと安直な説明だけれど人間は何時も同じ様なことをして生きそして老い、死んでゆくのだと感じていました。でもそのなかで悪人は誰もいません。生きてゆくということはそういうことなのだと僕は感じました。いい映画です。今度BSでやるそうです。是非考えてください。避難所の映像の先にある日常です。

2011/03/19(土) カゴが入って行かない
 まずR405の復旧のニュースがあります。本日17時過ぎに巨大な岩を除去しました。注意して通行されたし。と言うことであります。だからといって出て行く用事もありませんから無駄なガソリンを使わないようにします。
 福一さんと話すのですがもしかしたら飯山線はこのまま廃線になる可能性があるのではないかと。この区間は中越地震でも壊れた箇所で企業の営業率から言えば会社は手放したい路線ではないか。飯山線には並走するR117があり、列車のダイヤの組み方も昔は不便なダイヤでした。(今見るとそれは在りませんが)ただこの線と只見線、米坂線は鉄道を楽しむ人には思いで多い路線です。飯山線、戸狩野沢・十日町間の冬の景色はいいものです。この分だと長野・戸狩野沢間のみの路線になるように思えて仕方がありません。宮崎の高千穂線のように。新幹線が出来て信越線がなくなったけれど上越線があったから被災地に向けて鉄道物資は送られます。営業率だけでない本当のゆとりや豊かさを目ざすためにも飯山線がこれからも残って欲しいものです。
 ところで僕のところの索道はベチャベチャに解けた雪が邪魔して対岸のホームに入ってゆきませんでした。カゴの先からスコップを出してカゴが動かないようにロープを掴んで水のような雪をどけます。僕はこの路線は廃線にはしません。

3月絵日記の続き


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