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2010/04/17(土)
初雄さんの話
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観測史上2番目に遅い積雪が東京にもあったというが大丈夫だろうか。風邪には注意されたい。 先日屋敷秀清館のご主人が無くなった。むかしといっても昭和32年ごろここから8キロばかり上流にある渋沢ダムには電気会社の従業員が3人ほど冬も常駐していた。村人は30〜40キロほどの荷物を担いで越冬用の物資を運んだ。それは8年ほど続いたということだった。越冬の職員は途中で交代したというから我慢も出来たのだろうが、交代の職員は地元の猟師を頼んで冬の山を猟師道を辿って渋沢の宿舎まで行き、帰りにまた職員を案内して帰ってきたという。初雄さんは和山では重男さんと共に活躍した経験豊富な猟師だった。初雄さんは続けて話した。渋沢へ向う途中に馬の背という小さな尾根があってそこに避難小屋があったという。それは積雪を考慮して樹上に材木を上げて作った2・3畳ほどの小屋でストーブがあって一度そこで一晩を過ごしたことがあったという。今で言うツリーハウスでそれが遊びで作られたのではなくて必要な施設としてあったというのは記憶しておくべきことのように思った。 話ははじめに戻るが渋沢ダムへ行く道の脇、絶壁に立つ松があって「おけさの松」と言われている。以前日記にも書いたが、これは物資を渋沢に運んだ帰り、一服していると目の前にある断崖に立つ松に登って佐渡おけさを歌ったら酒一升出そうと、福一さんが話しかけた。すると初雄さんがまず上って歌った。そして満直さんがつづき、それではと負けず嫌いの秀清館のご主人が上って歌った。ところが最後に上った秀清館の歌声は震えていたと聞いたことがあった。今でもその脇を通る時には何時も思い出すがその松の立っているところというのは考えるだけでも震えるような絶壁の上なのだ。むかしの人たちの強さというか遊び方には脱帽するしかなかった。その秀清館のご主人も亡くなってみんな記憶の中に仕舞い込まれる前にと話しを聞いた。
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