来るなら来てみろ もっきりや
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最新の絵日記ダイジェスト
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2010/01/20(水) タミコに負けずに頑張ったが
 朝、起きれなかった。タミコが亡くなっていると思うと起きれなかった。それでもタミコはコタツから這い出して横になって息をしてくれていた。生きていてくれたことは心強かった。頑張るタミコに負けないように今日は洗濯を2回して、屋根に上がった。負けていられないと私も頑張った。用事を済ませて帰って来てタミコを抱いて「警察日記」を一緒に見ていた。8時タミコは呼吸が乱れてきて間遠くなって大きく息をするようになった。頭が座らずもう駄目だと覚悟しなければならなかった。
 8時半になってタミコはひとつ大きく息をして私の顔を見つめながら旅立った。それが最後だった。僕はどうしたらいいのだろうと涙が止まらなかった。
 タミコは野良の頃からダンボールが好きで今はその中に眠っている。タミコの最後の小水が浸みたズボンを穿きながら昨日のタミコ、一昨日のタミコ、一年前のタミコ、兄が亡くなったときのタミコ、母が逝ってしまったときのタミコ、同居の伯母がいなくなったときのタミコ、10年前のタミコ、出会ったときのタミコを探している。これからはタミコという文字を使えなくなるなーと感じながら線香を一本立てた。線香の香りと煙が揺らいだように思ってタミコを撫でてやると冷たくなった足の裏に別れが確かにあった。
 「もっきりや」に来て、泊まってくれたたくさんのお客さんにタミコがしてくれた営業活動を考えると、これからは私がタミコの分まで頑張らなければいけないのかと思っている。タミコを知っているたくさんの人たちに「ありがとう、ありがとうございました」と私からお礼をさせてもらいます。とても賢い綺麗な自立したネコでありました。タミコ、長い間ぼんくらな私に付き合ってくれてどうもね。助かったぜ、じゃあーナ。
 お釈迦様は「どうして死ぬの」と聞かれたとき「生まれたから死ぬのだ」と答えました。

2010/01/19(火) 外は暖かいぞ、タミコ
 今朝のタミコはそれはそれは弱って、仕事から帰ってくるまで持つまいと思っていました。出掛けに抱いているとタミコは涙を浮かべた目で力なく何かを見つめているようでした。体力、気力もなくなって足が体を支えることも出来ません。それでも帰って来るとタミコはゆっくり息をしてくれていました。
 私はもう最後を看取ってやることしか出来なくなりました。けれど、これでいいとも思っています。平成6年ごろから続いてきたノラネコタミコとの二人三脚は15年ほどたってその最後を迎えるのです。何でも始まりがあって終わりがあります。タミコが先でよかったのです。ましてタミコは生あるものの仕舞い方まで教えてくれます。私も助けられましたが、タミコも充分生きたのだから。私はそのときが来たら一日大泣きして終わりにします。私の明日はまだ続きそうだから。

2010/01/18(月) 晴れた。気分も。
 ようやく止んだので仕事に出た。このところの降雪で森宮野原では3mを越えたようだ。雪害対策本部が作られるということも聞いた。仕事は発電所の除雪だ。都会の人たちへクリーンな安全な電気を送るということは大変な努力がいるのだなーと雪を構いつつ考えた。これから先のエネルギーも大きな転換点を迎えるのだろうけれど、とりあえずいま、年を取った発電所を守りきって人々にエネルギーを送るのだ。これはいい仕事だ。
 帰って来ると旧仁成館のご主人がひとりで母屋の屋根、温泉ポンプ小屋、落ちた雪片付けと大奮闘だった。私のところは屋根の雪さえ下ろしていればまず大仕事は終わって、後は家に明かりを入れるためと運動で下ろした雪をボツボツ片付けるだけで、後は手のつけようがないから春まで諦めるしかないからいいのだが、湯は敷地も大きいのでやることは私の10倍はあるのだ。それを除雪機を使ってひとりで行うのは大変なことなのだ。降り続けば毎日だ。嫌になってしまうよなー。
 今朝、外気は−9℃。夜の9時では−1度。また降りだした。
 名言
  人の一生は草に似ている。春には未熟だが元気で、中年を迎えて熟し、秋には枯れ果てて
  消えもう生き返らない。人も草も同じ。死んだらそれで終わりだ。
  昔からそう思ってきた。
                 映画「世界最速のインデアン」

2010/01/17(日) 感動したなー
 NHKの半井さんは今日は昼には天気は回復すると確かに言った。私は対岸まで道を付けるべく昼前に家を出たのだが雪は降り止まず、勢いを増すようだった。外に出ればズンズン積もる雪と家に入れば息も絶え絶えのタミコに囲まれているとどうにか自分の精神のバランスを保つ為に酒を飲んだりタバコを吸ったりいつもやらないことをやってみたくなる。雪はこんなものだと分かっているのだけれど、朝起きて外に降る雪を見ると「いい加減にしてくれ」と少し苛立つ。また朝、タミコを見るまでは死んでしまっただろうかと自分を責めたり、とにかく今年の雪は何だか私の気持を逆立てて止まない。
 今日は「喜びも悲しみも幾年月」を見た。泣けた。ひとりだから声を出して泣いた。涙は気持を落ち着かせる。泣いてしまうとひとつの張りつめていたこころが解けてゆくように想えるのだ。
 名言
  主人に未練があって、おしくて他人にやれないの。
  今も地獄だけど別れたらもっとじごくだろって。
                向田邦子「あ・うん」

2010/01/16(土) 外に居る
 いやーきのうに加えて一日で50cmは積もったようだ。この4日で100cmは積もった。気温も−6℃ほどで雪は軽く歩くのに引っ掛かりがなく斜面を上るのは往生する。今日は玄関前と池の周り、水のタンクの小屋、家の周りの除雪に一日中かかっていた。家に居てタミコの姿を見ているよりいいのだ。タミコに何にもしてやれないし一進一退しながら悪くなってゆくのは見ていられない。タミコを見ていると私も気が優れない。
 そう云えばこの雪で栄村では小赤沢で2mを越え、117号線は除雪が間にあわず通行止めになったという。湯沢と森宮野原間のバスも運休だというし村内の各施設は営業を休んだという。今は雪も止んでいるので国道も復旧したと思うが、この時期対策を講じなければ雪国の走行は大変なはずだ。

2010/01/15(金) きのうの続き
 朝に気になるのは雪なんかよりタミコがはたして生きているかということです。5時ごろからウトウトしながら下に降りて彼女が冷たくなっていたらどうしようということです。それでなるべく起きないでいるのですが、7時を過ぎる頃には諦めて下に降ります。粘り腰で頑張るタミコを見つけてホッと胸を撫で下ろし一日が始まります。
 今朝は30cmの積雪で8時前から雪を片付けます。ついでに予定外の除雪までして結構楽しんでいます。汗をかくころに朝飯を取ってタミコを看ています。昼前に和山に向かって山を歩きますが新雪で腰まである雪は軽くどうにか歩けます。
 今日は15日でドント焼の日で対岸の屋敷集落の私としてはオブザァバーとして参加しました。去年不幸があって参加する人が少なく私の参加も枯れ木の賑わいでありました。想うにTVで大雪と言われますがここにいると大雪もある種面白くもあります。八甲田山の山中にいるわけではなくちゃんと除雪のされた国道の脇で生きる私はこれといった悲壮感はまるでありません。ただ病気になったときはこの辺の病院では心もとないのですがそうしたときは都会の病院に直行すればいいのです。村も都会の一隅に看病用のアパートを確保してくれれば東京の病人と何も変わらないはずです。病気はさて置いて雪はなかなか面白い。東南アジアのシンガポールや香港、インドネシアやタイ、ベトナムの人には貴重な体験になるはずです。と思ったりしています。雪はスキーなんかより雪下ろしの方がスポーツだと私は思う。
 名言 
  残るは十三騎 勝負はこの一撃で決まる。
                      七人の侍

2010/01/14(木) タミコ 大雪だァー!
 大雪はきのうから降っていたのだったら大変なことになったが朝は30cmほどの新雪で止む気配がない。今も降り続いてどうも大雪の様相になってきた。やはり今年は雪の当たり年なのだろう。嫌になってしまう。まだ一月も半分残っているし、雪のないところに行ってタミコに点滴でも打ってやりたいものだ。
 池波正太郎の短編で「お千代」を読んだ。ネコの名前なのだがその飼い主の松五郎がネコと一緒に暮らして、嫁を貰うとネコがそれを追い出してしまうという話なのだが、そのお千代も20年ほど生きたと書かれている。家のタミコはそんな霊力はないし、今はウンチをすることだけに気を使っているようである。今日は赤ん坊の指位のウンチをしたが、尻の周りを拭いてやる私に嫌なのかニューンと鳴くだけである。そう云えばタミコはネコらしくニャーオンとは鳴かなくなった。背中の骨が恐竜の骨のように手に感じられるくらい瘠せてしまったが十何年も一緒に暮らしているタミコはすっかり私を頼りにしている。

2010/01/13(水) 吹雪いたり、陽が差したり、降ったり、止んだり
 きのうはタミコを下に残して布団で寝た。タミコはストーブの前で寝ていた。こんな私が側にいては死ぬにも死ねないのかなァー。
 天気はめちゃくちゃで陽が差したり、吹雪いたりまた止んだりと先がわからないくらい変わった。
 東京の友人が食べないタミコにと病気食を送ってくれた。郵便はずいぶん遅れたが帰ろうとしたときにそれは届けられた。早速注射器のようなもので水やら流動食を無理やり食べさせた。量は些細な物だが少しでも食べてくれればいいのだ。
 私は天候に関係なくホッ被りして玄関前の除雪、池の周りの雪の始末、外の薪を掘り起こし、台所の除雪と動いた。その方が気が楽だ。
 名言
  こころやさしい 科学の子
              谷川俊太郎「鉄腕アトム」

2010/01/12(火) つらいナァー
 タミコは昨夜、夕刻より便をしようと動くのだけれど出ず、ろくに歩けず、目もうつろになる。少し移動してはへたり込み思い出したように動き回る。後ろ足が利かずふらふらと痛ましい。10時過ぎにネコ砂の上で動けなくなる。尻の周りは液状の便がこびりついている。湯で拭いてやるが嫌がる。3回ほど黄色の吐瀉物がある。胃液のようだ。姉に電話する。「しょうがないよ」と慰められるが誰かと話さなくてはつらくて涙が止まらなくなってしまう。ひとりで好きにさせようと思うが結局ストーブの脇で転寝をして朝になった。今夜が山だろうと感じた。タミコの目には少し狂気のような光が浮かんでいる。「しょうがない」と私も思う。しょうがないさよく生きてくれた。今度は人間に生まれ変われ。そして地球を救え。オレはネコになって君に飼われよう。
 タミコは頭を持ち上げない。いい猫だったナァー。これからは自分の鼓動だけを聞いて生きるだけなんだなー。
 名言
  泣くのは嫌だ笑っちゃおー
            ひょっこりひょうたん島

2010/01/11(月) タミコの涙
 今日は雪も降らないで、お日様も出ていい日だった。福一さんのところですき焼きをご馳走になってお正月をやって来た。元気になったことが第一のご馳走だ。帰って一杯飲んで横になって7時に台所に立つと水が出ない。これは焦った。明日雪片付けの作業があるし弁当を作らなくてはならないしと腕を組んだ。今日は暖かかったので台所の水を止めたのがいけなかった。「雪の中の水は大丈夫だから立ち上がりのパイプにお湯を掛けてみなさい」という。山からの水はちゃんと来ている。オーバーフローの水は池に出ている。お湯を汲んでパイプに掛けてみた。直ぐにボコボコと音たてて水がやって来た。油断大敵である。おまけにPCのインターネット接続が出来なくなった。色々やって部屋が暖まったころオンラインになった。水もPCも難敵である。何時この日記が途切れるかは人知の及ぶところではない。私は文系の頭しかない。
 ところでタミコは何にも食べず水を飲むだけで満足に歩けなくなった。私にしてみれば大切な連れ合いであってどうにかと思うのだが食べなくては致し方ない。見るとタミコは目から涙をながしながら私の脇に寝そべっている。ずいぶん長く付き合ってきた。どうにかならないものだろうか。涙をながしながらタミコはどんな夢を見ているのだろうか、その夢のなかに私は出てくるのだろうかと思ってみた。
 名言
 極楽も地獄も死後にあるのではなくて、死の直前にあるのではないか。
                      古山高麗雄

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