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2009/05/21(木) 草津街道1
 明治42年だったか長塚節が群馬から強力を頼んで切明に来た。彼はここに七日ほど滞在して信州に抜けている。そのことは藤沢周平が「白き瓶」という小説に書いている。また幕末の勘定奉行小栗上野守の細君が長岡藩で官軍と奮闘中の亭主に会いにこの道を通った。関八州に追われた国定忠治はこの道に入って追っ手から逃れた。それから四十年ほど前か文政年間には塩沢の庄屋鈴木牧之が二度ほど訪ねて「北越雪譜」「秋山紀行」を残している。北越雪譜は今で言う「るるぶ」みたいなもので何処にもいけない江戸市民の好奇心を爆発的に花開かせ、本は現在まで出版され続けている。
 草津街道は現在草津から野反湖を見て渋沢に出る。魚野川の右岸を道は続いて切明と和山の中間に出ると昭和8年の大日本帝国陸地測量部の五万分の一の地図には心もとない破線で記載されている。現在では渋沢からの道は深い緑の中に消えてしまっている。昭和30年代の電源開発のダムの巡視路を便宜的に使わせてもらうしかなくなった。


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