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2005/08/08(月) 後3回の国政選挙を経て変わる
 友人が釣りに来るというので、お出迎えけんお買い物であります。
何でも、ウグイやらヤマベ、タナゴ釣りの専門家で信濃川で糸を垂らしたいというので僕もお供させて貰いました。ただ浮きを眺めているのは久しぶりに体験するのんびりとした時間でした。
ジムニーに4人と荷物は情けないほど窮屈でありましたけど、その狭さは4畳半に6人の学生時代を思い起させてくれるくらい面白いじゃないですか。
その夜は「郵政法案」の参院での否決もあって、随分と話し込みました。日本の政治が確実に変わる切っ掛けになるはずで、見ようによっては小泉の純ちゃんは、幕末の老中筆頭阿部正弘のようで、守旧派の幕閣たちとの戦いに通づるものがあるようにも思えるのです。

2005/08/07(日) サー大変、泥水は飲めないシー
 水というのはなかなか手強いものです。道路工事の時も水を含んだ土砂に悩まされ、台風の時は敷いた砂利を押し流し、なんと言っても飲み水が濁るのも大変なことです。
 今までは危うい状況ではあったのですが、これを直すということはもっと大変です。水場は伏流水が一度表面に出て再び地下に戻って枡に流れ込みます。水の源泉を探してそこからパイプで集水枡に持ってくれば表面の泥が流れ込まないという寸法です。
K大工さんと親方と3人で頭を抱えます。今と比べると水量が減ります。そこに持ってきてスコップを使うからまるで泥沼に変わってしまいます。
 それでも始めてしまった以上やるほかありません。どうにか午後4時過ぎ応急処置として工事を終えました。
 別の水場を探していい水も見つけました。しかし、500mもあって途中、旧電車道が300mも続きます。ほぼ水平ではパイプのなかに砂でも詰まったら、メンテナンスが大変で管理できないということに意見が一致しました。いい水で残念なのですが、諦めました。
 秋に台風でも来ていじめた水場が落ち着くまでは様子を見ます。
 まー、こんなものです。しかし、今来ている水の量も質も上等な物です。当初の予定どうりに結果としてなったのですが。これで終わりではありません。これが始まりでしょう。やんなちゃったナー。と自棄酒をあおります。

2005/08/06(土) 環境即我 我即環境
 今日は広島原爆記念日です。60年の時を越えて亡くなった24万人の犠牲者の無念をどうするのか、僕には答えを出せません。こういうことはこれからも起こるのかもしれません。よほど日本の市民が気合を入れて世界の流れ、戦争、災害、病気を考えていかなければ、きっとまた起きるのです。
平和の碑を壊した人間がいて、それをイミテーションで直す人々がいるのです。変なことです。壊されたのは事実、そのまま捨て置くべきことです。平和はそれだけ遠いのです。安直に暮らしていると、簡単に殺されます。時代に。と、僕は考えるのです。何でも他人任せでは終わりません。「環境即我、我即環境」と言った薩摩藩の迫田利濟の言葉を忘れられません。
「環境即我、我即環境」は此処での僕の暮らし向きでもあります。もっきりやの水源が先達ての台風7号でダメージを受けまして、調べてみると今使っている水の元に辿りつきました。写真が見難いからはっきりしませんが、僕が解っているからいいのです。
スコップで穿っていると沢水はあっという間に泥水になって、お陰で一日中水槽タンクの清掃で終わりました。K大工さんに連絡して明日方法を考えます。後15年は生きるのですからその間、雪でも、雨でも、風でも、一応壊れない方程式の確立です。しかし、それでも壊れる時は壊れますが。
で、道のコンクリート敷きは順延となりました。これから1週間、繁忙期になる予定ですので、このまま何もしないつもりです。やるときはやるけど、お休みはグータラだ。

2005/08/05(金) 「インフラ戦争」進行中
 昨日の皆様のご指導ご鞭撻に沿うように行動しました。メッシュは十日町のむさしと比べると149円高いので必要最小にしてK大工と打ち合わせに向かい、「水は大事だから」と言ってもらえました。本来大工仕事でないことを頼むのは筋違いなのですが、K大工は意に返さないで引き受けてくれました。このことを役場に頼んだらどうでしょうか。多分役場の職員は「勝手にやれば!」でしょう。僕がこの栄村に居ることで村は毎年70万円の補助金が出ます。もう10年ここに居るわけですから村は700万円の収入が在ったわけです。でも、村はそれらしいことは何一つやってくれません。確かに春に一回除雪をしてくれますがそれは村道までです。取り付け道路は私道だから一切やりません。予算がない、一人しか住んでいないから無理だの一点張りで見にも来ません。だとしたら、この村の建設課なんて必要ないじゃないですか。本来こういったことは憲法違反でもあるのです。そのくせ、観光道路は完全舗装して一過性の観光客のためには莫大なお金を使います。人が住んで其処の固定資産税までちゃんと取っておいて、後はなんにもしないじゃ、世間は通りますまい。ここで、簡易宿所の認可を受けているもっきりやのお客がこの道で何か事故があったりしたら、僕は最高裁までこの村を相手に戦うつもりです。行政の厳しさと目的を我関せずを決め込んでいる職員がいたら覚悟するべきべきです。オレは時間があるから、どうせこの国の法律だから負けるかもしれないけれど、10年20年みんなを巻き込んでやらしてもらいます。
明日は水源を調べなくてはなりません。本来なら国民のインフラは行政が行うもので、水道は村が引くべきものです。でも、一歩譲るとしても村の公共水道を使えない村民の水の水質検査まで個人にさせるのは、水道を引けない村の落ち度でしょう。村は自立を言うならこの村に住んでいる総ての村民に目を向けて理解して、出来るだけ協力できて自立でしょう。奇麗事ではない。出来ればこの村の今のままがいいのですが、国は結局、長野県なら4ッつの市に纏めたのでしょう。長野市、筑摩市、信州市、諏訪市辺りでしょう。今回の合併の後には次の合併があるのは見え見えじゃないですか。村議員、村長は4年の任期でお仕舞いでいいかもしれませんが、この高齢化の進んだ地域で暮らそうと考える僕としたら、どう、ここの年寄りと共存出来るか10年20年真剣に思いを致すわけです。
僕は決めました、住む!ということについって、自主独立でなければならない。一人でインフラのすべてを解決したなら、僕はこの村を出たい。新たな地区として自立したい。世界に、飛び地という地域があるなら此処を何処かの飛び地として自立してしまうから覚えておきなさい。人間とはそんなものですよ。
「インフラ戦争」と名づけて今までの10年、これからの10年僕が死ぬまで戦い抜く覚悟です。山田風太郎氏に言わせれば「それがどうした」

2005/08/04(木) 樹木は静を欲しながらも風止まず
 もう始めなければ夏は終わってしまうのです。何処が痛いとか痒いとか言っていられません。朝ごはんを遅くすると、昼食の手間が省けます。つまりゆっくり寝て、一気に仕事するのです。これがもっきりや方式です。草刈りでも、コンクリート打ちでもこの方程式は変えません。
 コンクリートミキサーはなかなか良く働いてくれます。コンクリート用の一輪車一杯分が10分そこそこで出来るのです。まーダマシダマシ使っているので一回60リットルかな?それでも一輪車は重くて大変です。
 そうこうしていると、Yちゃんがお中元(戎ビール、麺)持って来てくれて、直ぐ長靴を履いて手伝ってくれるのですが、どうも動きがぎこちない。首を痛めて医者の帰りということを聞くと、手伝ってとは言い出せません。彼は平スコップを使ってばたんばたんとコンクリートを敲き平らにしていきます。「なるほど」と教えられました。そのうちF1さんが来て「もっと厚く、10センチないと、冬に凍って割れてしまう。メッシュを敷けば5センチでも大丈夫だろう。とにかく、奥のほうはもっと厚くしたほうがいいよ」「解った、明日メッシュ買ってくる」ということで話していると、谷内のSさんが奥さんとそのお母さんと久しぶりに来てくれて、同じようなご指導を受けました。
 みなさんが帰った後オクの部分を倍に伏せて、一枚あったメッシュを敷いて半分終えました。5時半、片付けをはじめどうも水の音がしないのです。また何か詰まったのかと水場に上っていくと、ちょっと何時もとと違うのですね。もう古い栃の切り株の下から湧き出してくる水なのですが、その腐りかけた木の株の右半分が崩れて、押し出してきているし、右手の杉が根こそぎ倒れているじゃーありませんか。
 取りあえず、水を流せるようにして、泣きながら暗くなった山道を帰りました。
「なんだよ、いい加減にしろよ、何処まで続くんだよ、冬越せねーじゃないかよ、コンクリートどころじゃねーぜ、バカヤロー、・・・まいったな、泣きだぜ、どうするか、とにかくもっといい方法を考えなくっちゃ、N1さんとK大工に相談だ!どっちみちならちゃんと直すか、しかし、こんな所住むとこじゃないぜ、ちくしょう」てなもんでした。ヌルイ風呂に入っていたらなんかゲラゲラ笑ってしまいました。
樹欲静而風不息 子欲養而親不在

2005/08/03(水) 蕎麦、芽を出す。えへんぷいぷい!
 昨日の花火で帰り着いたのが午前1時過ぎだったので、仁成館のお客さんになりなした。朝は遅いのです僕は。9時に起きだすともう湯の番頭さんは仕事をしておりました。湯のお上さんも花壇に朝顔を植えていたし、すごすごと帰りまして8月2日の日記を書いていました。
昼過ぎ、十日町の「ムサシ」へ材料の買出しです。コンパネ2枚(大型コンポスト用)赤松のヌキ、胴ブチ、コンクリート用の一輪車、掛け時計、壁紙の注文とボンドや工具、全ねじのビスや蚊帳を吊り用のフック。急いで帰ってコンクリートに使う砂を0.15立米を軽トラに積んでもらって、見玉石材の社長に感謝していると、「2トン車なら貸してやるよ。借りると高いだろう」なんと嬉しいじゃないですか。きのうの花火以上に嬉しく思いました。350キロ積みの軽トラに1トン近くの砂を積んでおっとり刀で帰りました。
出かけるとき畑がなんか騒々しく感じて見ると、どうでしょう、蕎麦の奴がちゃんと芽を出しているではありませんか。うれしかった。「お前たち、オレを頼るな、自立するんだぞ」と我が子に言い聞かせるように語っておりました。
長岡の花火が今日はTVで見れます。昨日とは違った感じで見せてもらいます。

2005/08/02(火) 中越地震復興長岡大花火
 どどーん、バリバリバリ、どっかーん、わーあー、ヒユ―ぶウワーンバリバリバリッ、わあーうわあー。
とっまア―こんな感じで、初めて見るそれは大変な騒ぎでありました。
自宅が多摩川に近かったせいか花火は遠くで見て、蚊に刺されて痒いものだという記憶がありましたけれど、実際、日本一の花火を見て感じるのは、その見物客の多さと爆発物の破裂音の凄まじさ。落ちてくる光源が向かってくる感じに驚きを禁じえません。時節柄花火だからいいものの、爆弾だったらちょっと困ってしまいます。
昨日は昼ごろ仁成館さんから「何やっているんだ、グーたらしていてもしょうがないぞ!花火に行くから早く来い」とのご連絡を頂いて、早速出かけました。まず、食事の豪華さをお伝えします。十日町のさがのという蕎麦やで天ざるをご馳走になり、夜は長岡で生ビールと寿司、帰りしな夜食に牛丼とビール。大変おいしく頂戴しました。感謝。
湯の長岡でのお知り合いの方が席を取ってくれていてその間整体をやっているI先生に少し腰の手当てをして頂いて(あまり時間が無かったので、とば口だけ)、会場まで出かけ、ワーワーキャーキャーと楽しんで9時半までの2時間堪能しました。その後は「やがて寂しき花火かな」というわけでありました。
しかし、これで中越地震の被災民が救われるとは思いませんが、なーに俺たちは俺たちでこんな楽しみ方も持っているぞという心意気を感じました。会場で感じたのですが、目をつぶって音だけを聴いていると、戦時中至る所で聞こえた爆破音はこんなものだったのかと隣の湯のご主人に問うと「こんなものではないだろう」とのご返事。「さもありナン」と納得しました。きっと、とんでもない恐怖を感じるだろうナ。歴史にもし?はないけれど、G島、サイパン、フィリッピン、沖縄、本土上空で、大砲ではなく、こんな花火を打ち上げていたら、日本人は大人だなーと鬼畜米英に感じてもらえて、戦後処理の好材料になりはしなかっただろうか?今度、大きな災害があったら恐怖の闇に大きな花火を打ち上げようかしら。

2005/08/01(月) 下がると もうそりゃー大忙し、それがどーした
 お米が一粒も無くなったので、飯山温井の友人宅に取りに出かけます。奥志賀道路でカヤの平から木島平、飯山と回ると思っていたより時間が掛かって随分と遅れてしまいました。この時期暑いので友人K氏は短パンとTシャツで打ち解けておりました。小一時間、来し方行く末を嘆いた後彼の作った飯米を受け取って、津南の友人宅までとって帰りまして、さーこれからが大忙し。時計は14時を指していて、まず、昨日の年上のお嬢様より依頼を受けた玄米30キロをコイン精米所まで持っていって(これが近くに無くて津南まで出る)ダンボール、ビニール袋、ついでにGASを入れて、またとって返して、昨日も寄った友人宅で袋詰め、機械で袋の口を締めてダンボールに詰め、伝票を書いて貼って、そこの大家のおじさんの作るトウモロコシを明日送ってもらう段取り。お金を払って、伯母さんが腰をまげまげ言うには「今年のトウモロコシは熊にやられて、山側の畑はだめだ。それも何頭も来ているって」「まいったね」と僕。
スイカを頂いて、友人宅で預かっている「優咲(ゆうさく)くん」と遊んで、随分と慣れたね、なんか話しながら17時に帰り着きました。津南では午後2時過ぎると食事が出来ません。みんな休憩に入って、仕方なく帰り着くまで、沢の水なんかゴクゴク飲んでいたのですが、家について、即席ラーメンと昨日の炊き込みご飯。炭水化物で腹をくちくして気が付くとTVで山田風太郎の日記を三国連太郎が読んでいました。とてもいい内容の映像でした。そのなかで山田風太郎は「小説を書いた、それがどうした。大きな家を作った、それがどうした」と日記に書いていました。晩年の山田風太郎は時々短文なんかを読んでいて、いいなーと感じていました。
と感慨に耽っていると電話が鳴って「もう一つトウモロコシ送ってくれない」年上のお嬢様でした。僕は心の中で「それがどうした」と呟きました。


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