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2005/06/06(月)
連帯を求めて、犠牲を恐れず
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今日は「秋刀魚の味」を観て、「ER ]」を観ました。色々と人間がいて、そのなかで泣いたり笑ったりするのはいいものだと、ガックリ感じました。 残された工事はほぼ終わりました。一応の目途です。U字溝伏せ、土留め板の設置、バラスを敷いててん圧を掛けて、石を敷いてまたバラスを撒いて、よく働きました。想うのですが、よく他人に言われます。「お前、幾ら金かけて道なおしても、雨が降ったらお仕舞いだよ。無駄なことして、馬鹿だよ」と。でも私はそれでいいのではと考えます。やりたい事があったなら、やるしかありません。その最中で倒れたからって、やらない事よりいいのだと。人間いつまでも、そのままでは生きられないのだから。人を愛するにしても私の場合は「サウダ―デ」(不在の愛)でして、いつも遠くに去った女性を思い、淋しさに暮れるのが習いになっていまして、あんまり他人の言い分には組しないのです。ついでに言っときますが、ポルトガルのファドは「流した涙の量」が歌になったものであるそうです。もう一度ポルトガルのファロに行きたい。深夜聞こえてきたファドに感動したこと、思い出しました。 ところで、何かするということは、犠牲を伴うことで、それを恐れていては何にも始まりません。ときには人間。ときには自然。犠牲を恐れていては勝利は見えてこないのです。今回の工事では、幾多の沢蟹、卵を守る蛙。沢山の生物の犠牲を強いることになりました。不思議なことに、疲れ果てている時は見もしなかった犠牲者が、余裕が出来ると見えてくるのです。まーそんなものです。人間なんて、自分勝手なものです。
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