千軍万馬の武将達
ホームページ最新月全表示|携帯へURLを送る(i-modevodafoneEZweb

2008年9月
前の月 次の月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
最新の絵日記ダイジェスト
2008/10/20 証券取引所の再開
2008/09/28 鼻垂れ小僧と終戦直後の世相
2008/09/25 終戦直後の日本経済と兜町
2008/09/14 目次

直接移動: 200810 9 月 

2008/09/28(日) 鼻垂れ小僧と終戦直後の世相

鼻垂れ小僧と終戦直後の世相


 此のころはまだまだ小生は時計屋の鼻たれ小僧の餓鬼大将宜しく混乱世相の中、ジープに乗ったアメリカ兵が拙宅の時計屋に時計の修理に来てはチョコやガムをプレゼントして呉れた事を喜び、焼け跡から赤銅線や鉛を拾い集めたり、簡単な時計修理を自ら進んでやったり、親孝行をするのだと野菜の買出しに行っては小使いを稼ぎ出し、其のお金で友達に御馳走したり、当時はまだまだ高価な自転車を購入し得意がっていた時代であった。

 小学校の校庭で真冬の休み時間に氷の張ったプールに野球ポールが落ちてしまつたので飛び込んで拾い上げ、一躍有名になった事もあった。本当に始末の悪いガキ大将だったのだ。 現在もうだつのあがらないのは、 この頃の悪い性格が未だ抜け切らぬ為であろうか。

 終戦直後の繁華街は復興景気も手伝って本当に凄まじかった。 竹町の佐竹商店街・三味線掘り・上野広小路は賑やかな街で、御徒町アメヤ横丁(通称アメ横)はもっと凄かった。

 芝居小屋や映画館がひしめく下谷區竹町の我が家は、戦火を逃れた家屋で、 裏側一帯は焼け野原、そのため隅田川が一目で見えていた。

 ぼうぼうと伸びた焼け野原には雑草が生い茂り、所々には肥え溜まりがあり、焼け野原での遊びで肥溜めに落っこちた仲間もいた。

 浅草の映画館の入場料は三円で、映画館通りはごった返して歩けぬぐらいの混雑で、エノケン・金語楼・横山エンタツの喜劇の絶頂期だった。

 町内では地元の叔父さんと一緒に我が家の前に、 始めはミカン箱を置き、いち早くラジオ体操復活運動を開始し、町会の後押しも加わってラジオ体操を復活させた。                          


その後、大勢集まり出して体操会場を竹町公園に移し、其の功労を当時の内山下谷區長(現在の台東区)から賞状を受賞し、読売新聞(当時は四ページ刷り)の紙面に、体操台で体操をする小生を中心に千人程集まり体操をしている写真が半切いっぱいに掲載された事もあった。 町会青年部でも役員として活躍し、ソロバン塾の先生とは三級検定試験の合否の賭けで月謝一年分を勝利した事もあった。

 中学校の校舎は西町校舎から御徒町校舎に移り、 竹の台女子中学校と男子西町中学校(後の東叡中学校・現御徒町中学)の混合校舎で、異性を意識しだしたのが此の頃だった。 陰毛が顔を出し始めて教室で仲間同士がお互いにその長さを競い合った思春期は恐らく皆似たり寄ったりの行為をした経験があったのではないか・・・。 純情そのものだったと思っている。

 野球は捕手で上野の山の区営グランドを優先的に使用させてもらい練習に励んだ。 近所の小さい子を連れての自転車遊びは池の端・上野公園・東京大学の三四郎池が遊び場のコース。 伝書鳩は最高時三十羽、ヒヨコは百羽いっぺんに買ってお袋にこ・て・ん・こ・て・んに怒られた事があった。 其の三ッ日後にはこの百羽全部が野良ネコに引っ掻かかれて殺されてしまった時も再び コ・テ・ン・コ・テ・ンに怒られた。 それ以来、いまでも猫は大嫌いで好きになれないのだ。


喧嘩シャモを飼っていた時はがき大将の闘争意識の血潮が騒ぎ、 他流試合をさせる為のトレーニングを毎日欠かさず行い、日本手ぬぐいを喉首に突っ込み、少しでも喉首を太くさせ喧嘩の最中に、相手の羽根が喉首に、少しぐらい入っても、びくともしない強靭な一流軍鶏に仕立てる為に、試合前には高価なマムシを与えたり、 日本酒を口に含んでは顔に吹きかけ、真っ赤に紅潮させ、姿勢も常に気合を入をいれて、遠征試合に度々出掛けては賭け試合にも参加し、賞金稼ぎのがき大将は此処でも天下御免のやりたい放題の日々を送っていた。


 Copyright ©2003 FC2 Inc. All Rights Reserved.