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2008/10/20(月)
証券取引所の再開
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証券取引所の再開
すでに証券取引所は終戦前の八月十日に閉鎖されていたが取引所が閉鎖されインフレは高進しヤミ取引が横行する中、先に述べた通り証券株そのものの流通はGHQの閉鎖指令や大蔵省の目を盗み、密かに集団取引と云うヤミ売買取引として兜町の路上や証券会社の地下室で行われていた。そして何故かGHQも大蔵省も黙認していた。証券関係者は封鎖預金取引で「株式払い込み・株式買い入れ」の出来る様、大蔵省へ強く働きかけ新円・旧円切り替えによる株式流通封鎖預金取引の円滑化の申し入れをし簡単に許可され合法された。
知恵者は此のどさくさに紛れて新旧券の円売買を起用に動かし新興成り金になった者が出たり、金融緊急処置令違反容疑で警視庁の調査の騒動が起こり、結果、封鎖預金取引禁止令の勧告で決着が付き、株式本来の流通市場の売買は必然的に新たな展開を迎えたのだ。 この頃のヤミ取引(集団売買)の最高時は出来高六億株に達していたのだから驚きだ。そしてGHQ再開許可を二十四年二月に取りつけ待望の市場取引再開に漕ぎつけた。此の頃の混乱を整備し、戦後の証券取引所が再開されたのが昭和二十四年五月十六日。 GHQの重圧の難関を乗り越えての船出である。 再開当時はまだ日々の株価も一部の新聞にしか掲載されず終値のみで、大衆投資家なんて言葉は存在せず、株価が百円もしている株式が額面五十円の有償増資発行しても失権株が出た時代。
仕手筋・地場筋・買占屋・株屋の大将(証券会社社長個人の手張り)と群がるチョウチン筋(株屋の従業員や山っ気の多い旦那衆)そして事業会社等が参加しての株価形成が幅を利かせ、投機相場が中心と云っても過言ではなかった頃で、株券の受渡しも決まりがあっても守られず銘柄によっては数カ月も受渡しが行われない取引もあり、足(損金)を出してはペコンと頭を下げれば親分肌の人がいて面倒を見てくれた時代だった。
市チャンは昭和恐慌の暴落で相場の失敗で大損を出し当時所属していた会社の大将に穴(損金)を拭いてもらった事があったと話しをしてくれた事があったが、戦後のヤミ取引と新円切り替えでしこたま儲け再開直後に若手の失敗のケツ(損金)の面倒を何人も見てやったと一般世間の常識では全く考えられない相場の世 界の摩訶不思議な親分子分の関係が存在していた所だった。
戦後GHQに接収された証券取引所 (上の石像には鎖が繋がれている)
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