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2009/10/24(土)
忙しい一日であった
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昨日の歩数:541歩 起床時間:7時37分 血圧 :129 73 脈拍 :75 体温 :35.5℃ 体重 :64.6kg --------------------------- 晴れ 14時雨 パソコンチェック 急いで着替える 池袋と島区民センター 6階 手塚悦子奥様 テープカットに行く予定。 8時家を出てひばりが丘まで歩く。 練馬駅で乗り換え準急電車で池袋へ、9時15分。 豊島勤労福祉会館そばの消防署ではしご車などの訓練を見て9時30分会場に着く。 暫くして悦子奥様も見える。やはり電車でお見えになったとの事。そして岡部先生と会う。 関係者席に案内され手塚奥様の後方に岡部先生と座る。 出会いの日であった。 たくさんの来賓がお見えであった。 豊島区関係の人たち。 トキワ荘記念碑設置実行委員会委員長岩井様。 手塚プロ清水版権局長。14時から武蔵大学講演会があり私の行くが、これで質疑が出来なくなった。 出版局 古徳 稔局長。著作権事業局営業部イベント担当副部長新見秀和プロデューサーなど。 そして何より驚いたのは鞄。子・F・不二雄プロ 伊藤善章代表取締社長とお会いできた事。生憎名刺を切らして仕舞い失礼してしまったが、後で連絡を取りたいとの事で電話番号をお知らせしてきた。 お話しが長くなってしまい、全員が7階の資料館へ移動してしまった。 急いでいくと既にテープカットは終わっていた。 奥様、岡部先生と合流。水野英子先生もお出でになり奥様とお話。 11時30分にはマイクロバスで記念碑の公園に移動、道路が渋滞していて、赤塚不二夫先生のアパートあと紫雲荘を見学、紫雲荘は、1959年築の木造2階建てアパートで、赤塚さんは1960年7月から1年3か月、2階の4畳半一室を、仕事場兼寝室として使っていたのだという。 少人数づつと言う事で最初に奥様、岡部先生、水野先生、赤塚先生の赤塚さんの長女で、フジオ・プロダクション社長、赤塚りえ子さんなどと一番に行く。 入り口は隣の3畳の部屋からでがで画取り払われてその部屋と繋がっている。 3畳の部屋には思い出の写真が飾られていた。赤塚りえ子さんが当時の思い出話をしてくださる。所員からの説明も、大家さんは当時の事を手塚奥様と、次の人に譲ってくださいとせかされるまで長くお話しいていた。 そして記念碑のある南長崎花咲公園へ歩いて行く。 古書店が出来ていて手塚先生の本がたくさんあった。どれも懐かしく欲しい本ばかりであったが高すぎて手が出ない。それでも岡部先生は2点ばかり買っていた。 東長崎駅までソコから歩いて行くことにして行く。 江古田駅で手塚奥様とお別れする。 13時10分岡部先生と駅近くのイタリア料理店で食事をしておく。 13時30分武蔵大学へ、丁度清水局長が入り口近くにお出でになり。手塚プロ関係者として席に案内される。 藤澤編集者の新人の女性と見えており近くの席に座る。 14時丁度公園が始まる。 14時30分突然気分の悪くなった人が出て清水局長の判断で急遽講演をやめ係りの人たちが救護活動、講演は休憩に入る。 救急車が来て救護されるまで約30分ぐらい。 的確な判断で、講演を停めた清水局長の判断に再演したときには大きな拍手があがった。 このために講演は16時までかかってしまい、残念ながら質疑応答は中止された。 小雨が降り始めている、江古田駅で岡部先生と別れ、豊島園行きで練馬で準急に乗り換え東久留米駅に16時50分着く。 昨日図書館へ予約していたのを思い出し、時々走って57分中央図書館へ着く。 借りる事が出来た。 17時30分家に戻る。 お腹が空いていたので女房の食べかけのコップジャムパンを食べる。 「夕食に起こしてやるから」と妻の声に押され自失で横になりテレビをつける。 「夕食だよ」の妻の声に20時起こされて食事、次男は出かけていた。雨が強くなっている。 21時横になりDVDを見ていると「風呂先に入れば」と妻が。 風呂に入る。 あがると長男が帰宅、濡れていたのでタオルを渡す。 寒いし布団に入りDVDを見る。 23時40分どうも渡辺先生にアドレスがわかったのにメールを出さない事が気になりだす。思い切って起きてパソコンのスイッチを入れる。 まず、Hotmailで出してみる。エラーメッセージが来ないのでアドレスの間違いはないようである。 1時15分今度は少し文章を書いて アドレスと同じGmailで送る。 1時18分渡辺先生から返事が来る。 1時40分その返事が届く。 18分にメールの返信と思っているようだ。実は違う。 これを書いているメモしておこうぐらいで、書き始めたが2時20分もう寝なくては。
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