|
2005/12/25(日)
虫プロ興亡記を読む
|
|
|
借りてきた展覧会の絵のCDを聞きながら虫プロ興亡記を読んでいる。昭和35年10月12日、山本さんが始めて手塚治虫に会いに行くくだりであった、私が15歳になろうとしている中学2年生の頃の話家の周りはまだ田んぼだった。富士見台駅から富士山が見えたなど懐かしい風景がかかれている。初めて手塚治虫にあったところで手塚がタバコを吸う件(くだり)が描かれていてびっくり、私は社長室時代、徹夜でニューオータニで、缶詰になったときでさえ1度も先生の喫煙を目撃していなかった、灰皿など片付けた記憶すらない。私の結婚式の仲人をしていただいたときの写真にほっとした手塚先生が、喫煙している写真を見てびっくりしたのを覚えているぐらいなのであるが、当時は吸っていたのだ。東京芸術大学を目指したが貧しくてあきらめた件など私と同じ当時音楽に興味があった私は武蔵野音大の願書まで取ったが貧しさで断念した、36年5月電報での件も同じで入社試験を受けたあと4ヶ月が過ぎても連絡が無くデパートへ勤める事にした次の日に速達で合格通知が来て次の日に出社されたしとあった。今井義章さんが登場する、専務になられたかたが登場、そして給料が3万円暫く後の頃はやった曲の題名が1万3千8百円というのがあったが、大学での初任給が1万3千8百円、5年後入社の私が1万7千円いかにすごいかわかる。部屋の間取りが私がいた時とは違うかはっきりと判る。坂本雄作さんがすでにいた事もわかった。広川和行さん渡辺千津子さんらも登場した。山本さんが手塚崇拝者で我々の同胞であったと思われた。 ページは進まない画像処理などする。夕方携帯に電話で明日聾唖協会友人の会長さんの手伝いをする事になる。早く寝ておくことにする。
|
|
|