日常の何気ない出来事を〜つれづれに〜
ホームページ最新月全表示|携帯へURLを送る(i-modevodafoneEZweb

2009年10月
前の月 次の月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
最新の絵日記ダイジェスト
2012/09/01 ダイアリーは更新していません
2012/06/24 甘利山三山に登る
2012/06/23 鎌倉2日目
2012/06/22 鎌倉へ一泊旅行
2012/06/11 竜爪山へ

直接移動: 20129 6 5 4 3 2 1 月  201112 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201012 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200912 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200810 8 7 6 5 4 3 2 月  200712 6 5 3 2 1 月  200612 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200512 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200412 11 10 9 8 6 4 3 2 1 月  200312 11 10 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200212 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200112 10 6 5 月 

2009/10/31(土) 10/30 イスタンブール歴史地域 その2
昼食はマルマラ海峡が見えるレストランでトルコ名物のドネルケバブの食事
次はトプカプ宮殿
トプカプ宮殿は、15世紀中頃から19世紀中頃までオスマン帝国の君主が居住した宮殿。
イスタンブル旧市街のある半島の先端部分、三方をボスポラス海峡とマルマラ海、金角湾に囲まれた丘に位置する。

1453年にイスタンブールを征服したメフメット2世がビザンチン時代の宮殿や建物を取り壊し
1467年にオスマン帝国の宮殿として建設し、歴代のスルタン(オスマン帝国の皇帝)が増築しながら
400年間に渡って居城とした所である。
広大な敷地は4つの庭園の敷地に別れそれを取り囲むトルコで最大規模を誇る建築物で現在博物館になっている。

宮殿の中には5000人の人が住んでいたという。
陶磁器展示室には10〜18世紀の中国の宋代・明代の白磁・青磁、18〜19世紀の日本の伊万里焼きなど
12000もの品が展示されていて数多くのシルクロードを語る重要な文物もあった。
アフメット3世の図書館や衣装展示室、歴代のスルタンの肖像画室
大きなルビーやダイアモンド、エメラルド、真珠などの宝物殿。
恐らく略奪、殺戮を繰り返しての強奪品の金銀財宝の贅沢の限りを尽くしたものに違いない。

第2の庭の奥にはハーレムがあった。ハーレムの女性400人がスルタンのお声掛かりを待っていたと言う。
男性入室禁止で従者は奴隷が去勢された男たちが働いていたと言う。
かつては400もの部屋があったと言われ建て増しによって内部は迷路のように複雑になっていた。
スルタン、夫人、スルタンの母、宦官、女奴隷たちの大小の部屋があり外部からの侵入と
奴隷たちの逃亡を防ぐために窓と言う窓は鉄格子でふさがれていた。
新しいスルタンが誕生するとハーレムの女は入れ替えになってすべて殺されると言う運命とか、又
スルタンとの謁見の間があったが、猜疑心の強いスルタンは謁見した内容を部下に知られないように
護衛の兵隊はすべて耳が聞こえない聾唖者ばかりを護衛につけたという。いかに残酷な世界であったことか・・・・

トプカプ宮殿を出て今度はグランドバザールの見学

このグラン・バザールは、その昔、メフメット2世の命により1461年に建築され、どんどん増築するうちに
このような巨大マーケットになってしまったらしい。
ここの屋内市場は中東最大ともいわれる大規模なもの。
場内は大きな屋根で覆われていて、通路が迷路のように無秩序に伸びておりその両側には貴金属店、
絨毯屋、陶磁器販売、洋服店などが約5000もの店舗が並んでいるという一大ショッピングゾーン。

集合場所だけ決めて自由散策と言うことになったが迷路のようで奥に行けば迷子になるというので
なるべく奥にはいかないようにしてあまり広範囲は勇気が無くて歩けない。
それに商品には値札も無いものが多く値段の交渉から始まるのでうっかり買えないものばかり。
日本語で呼びかけられるし日本語も通じるけど観光客目当ての怪しげなお店もあるので要注意!とのこと。
すでに今までのモスクの見学で歩き疲れているので特別に欲しいものもないし値引き合戦をやる
気力も体力も無いので一通り見てからバザールの近くにあるカフェでチャイを飲みながら皆の買い物を待っていた。

ここのチャイで思いがけなく嬉しいことがあった。
トルコに来てエルマティ(りんご茶)のとりこになってしまった私。
エルマティを頼んで出てきたチャイカップがとっても可愛いので「これとっても可愛いね」って
日本語でいとおしむ仕草をしたらお店の青年は奥から新しいチャイカップを紙に包んで私の荷物を指差して
この中に入れなさいと言う仕草で下さると言うのだ。嬉しくて嬉しくて何度もお礼を言った。
何か差し上げるものが無いかと思ったけれどなんの持ちあわせも無くそのまま頂いてしまったのが
今でも気がかりなんだけど今も家でこのカップでチャイするときこの青年の笑顔を思い出すと幸せな気分になる。

夕食はアガサ・クリステイの小説「オリエント急行殺人事件」で有名になったイスタンブールの
「スィルケジ駅」のなかのレストラン。 
オリエント急行の終着駅として1888年に建設され、かつては上流階級の人々で賑わっていたそうだ。
スィルケジ駅の鉄道博物館側入り口は、当時の面影を残す重厚なレンガつくりで今も使われている。
この出口から何人かの乗客に混じってアガサ・クリスティが書いた探偵ポアロが現れて「オリエント急行殺人事件」が始まる、と想像すると面白い
アガサクリスティーがこの駅を訪れたときの写真や有名人や名だたる人たちがこの駅を訪れている事が
壁にあるポスターや写真で示されていた。

世界三大料理と言われるトルコ料理は日本の味にも近く、概して美しく、とても美味しい。

トプカプ宮殿

2009/10/30(金) イスタンブール歴史地域 その1
今日は夕べ遅いのでゆっくりの9:00出発なのでゆっくり起きる。
朝食に行くと外は雨だった。初めての雨 今日までお天気に恵まれたのだから仕方ない。
今日は世界文化遺産であるイスタンブール歴史地域の歴史的建造物群の観光だ。

最初はブルーモスク
バスの中からもうその壮麗なブルーモスクの姿が見える。
オスマン帝国の第14代スルタン・アフメト1世によって1609年から1616年の7年の歳月をかけて
建造され世界で唯一優美な6本のミナレットと直径27.5m 高さ43mの大ドームをもち、
内部は数万枚のイズニク製の青い装飾タイルやステンドグラスで彩られていて、白地に青の色調の美しさから
世界で最も美しいモスクと評されブルーモスクとも呼ばれているという。
(昔は竹の節のようなミナレットから礼拝を肉声で呼びかけていたそうだが最近はラウンドスピーカーのようで毎朝コーランが聞こえます。)

普通のモスクでは女性はスカーフをかぶらないとは入れないそうだが、ここイスタンブールは世界遺産として
観光地になっているので世界中から異教徒も来るのでスカーフの必要は無いと言う。でもスカーフを持っていてかぶって入りたかったな。

モスクに入るときは手や足など身を清めてから入るのだそうで10人以上の人が同時に洗うことが出来る洗い場が並んでいた。
2.3人のイスラム教徒が洗っていた。観光客にはその必要はないらしい。下足用のビニール袋が配られて靴を脱いであがった。

まずはその大きさにびっくりしてしまうが日本には無い石造りの堅牢さに圧倒される。
中はほの暗く無数のグラスランプが吊り下げられ、首が痛くなりそうなくらい見上げてしまうドームには、
アラベスク模様のブルーのタイルがびっしり。
広大な空間に投げ込まれたかのように高さ43m、直径23mのドームが天空を覆い、その四方を半円のドームが包み、
その半円のドームをさらに三つの小さいドームが囲んでと複雑に組合わさっている。
ドームの窓には美しいステンドグラスがはめられその光が碧いイズニックタイルに反射して空間を重く感じさせない。
不思議な空間が醸しだす美しさにはいつまでみていても飽きない感じ。

幻のビザンチン帝国
いよいよ次はブルーモスクの向かいに堂々と建つ、赤茶色の大聖堂「アヤソフィア」四本のミナレットと
大きなドームが聳え立つビザンティン建築の最高傑作と評価されている。

庭にはエジプトのオベリスクとコンスタティヌス一世の2本のオベリスクが建っている。
このアヤソフィア大聖堂が建設された頃がキリスト教国家、ビザンチン帝国がの最も栄えた時であった。

ここでもまず第一に驚いたことは天井の高さです。
56メートル!15建てのビルくらいの高さだそうです。
アヤソフィアはローマ帝国の皇帝により、キリスト教の聖堂
として建てられましたが、
オスマン帝国がコンスタンティノープ
ルを征服した後、イスラム教のモスクに変えられました

西暦360年ローマ皇帝のコンスタンティヌス2世によって建造されましたが、暴動によって2度破壊されました。
現在の建物は537年にユスティニアヌス1世によって再建されたもので、ギリシャ正教の総本山となり、
歴代のビザンチン帝国皇帝がここで戴冠式を行いました。その後は大地震や十字軍の略奪などによって
聖堂は荒れ果てていきます。

1453年にビザンチン帝国がオスマン・トルコに征服され首都のコンスタンチノープルが
イスタンブールと改名されるとともにアヤソフィアもイスラム教のモスクに変わり、
頂の十字架が三日月になり、4本のミナレットが作られました。1922年にトルコ共和国になり、
アヤソフィアは現在の博物館となりました
その際に、それまであった十字架がとりはずされ、メッカの方
向を指し示すミフラーブというものが設けられました。

アヤソフィアの一番のみどころはモザイク画です。オスマン・トルコによってモスクに変わった
アヤソフィアは偶像崇拝を禁止するというイスラム教の教義に従い、大聖堂時代の内部のモザイク画は
漆喰で塗り固められてしまいました。オスマン時代に大改修で一時的に漆喰がはがされたこともありましたが、
現在のようなったのはやはり共和国になってからです。
 
ドーム内に入って最初に見える後陣の半ドームに描かれている「聖母子像」や
 全部で10点ほどのモザイク画が残っています。

(・・・ということです。パンフより)

中は修復と調査のために足場が組まれていた。もう15年間修復しているそうでまだ何年かかるか分からないと言う。
トルコ建国の父アタチュルクによってモスクの改造され博物館になり塗りこめられた漆喰の中に残る
数少ないイコンに出会えたことは感慨深いものがある。
1400年以上も昔に描かれたイコンは素晴らしい物だった。


ブルーモスク

2009/10/29(木) 古代都市トロイへ
アイワルクのホテルはエーゲ海のすぐそばにある。日の出と共に朝早く起きてエーゲ海の海を散歩した。
朝日の何と素晴らしいこと!こんなに美しい朝とはしばらく会っていない。
これがエーゲ海♪と思って手を浸す。

7:30出発 チャナッカレにある古代都市トロイへ
距離は 150km 約2時間半 

ボーダーホンのお店があったが町で携帯電話を持っている人に
あまり出会わない。まだ普及率が低いのかもしれない。
エーゲ海の丘陵地は松林が続く。
トルコにもトルコ産マツタケが会って日本向けにもかなり
の量を輸出していると言う。
碧いエーゲ海が広がる今日の天気は快晴
オリーブ畑 羊たちが放牧されている。小さな人里でも有ればそこには必ずモスクがあり
現在新しく建設されたモスクも多いようだ。

トロイ遺跡はドイツの商人シュリーマンが言わば執念で発見した遺跡
幼い頃の感動した記憶だけを元に幻だった歴史を現実のものにした。
ギリシャの有名な叙事詩ホメーロスの「イーリアス」に語られているトロイ戦争の舞台として有名。

紀元前3000年から紀元400年もの間反映と衰退を繰り返してきたトロイ。古代のエーゲ海交易の中心地であった。
その軌跡を今に伝える遺跡は9層にもなっている複雑な都市遺跡。
入り口には巨大な木馬が再現され城壁のの内部にはアレキサンダー大王ゆかりのアテネ宮殿などが
あり又一歩外に出るとローマ時代の野外劇場がある。

伝説の中では木製の巨大な馬「トロイの木馬」が10年にも及ぶギリシャ軍とトロイ軍の戦争を
終結させる要因となったトロイの木馬の残骸まで見つかったと言われている。
トロイの遺跡の年代層と言うのがあってシュリーマンが掘った1〜9年代までの遺跡のあとがあった。

遺跡の規模は、かなり小さく城壁に沿ってぐるりと一周するように見学路が設けられていて
ゆっくり見て歩いても1時間もかからない。比較的良く残っているのは第2市と第6市の城壁と、
第9市(ローマ期)の劇場跡。一番見応えがあったのは、上述の第2市の傾斜路。
いろんな時代の遺構がごちゃごちゃしていて良く分からないけど
アレクサンダー大王が立ったかもしれない場所に自分が立っている!!
それだけが感激だった。

トルコ人のガイドも発掘品は、シュリーマンがドイツに持って帰ってしまい、そしてそれら
は第2次世界大戦時に爆撃で焼失してしまう(一部は戦争後のどさくさに紛れてロシアへ)。
遺跡もシュリーマンが自分の考える「ホメロスのトロイ」にこだわるあまりそれより新しいと
考えた遺構は潰して掘り進んでしまったとかシュリーマンに対する恨みつらみを述べていたけれど
彼の執念の思い込みが無かったら今でも見つかっていなかったのかもとちょっぴりシュリーマンに心の中で味方していた。

トロイの遺跡を見学した後はバスはいよいよイスタンブールに向かう。

バスごとフェリーに乗りダータネルス海峡を渡る。アナキア地方からトラキア地方まで
船で30分。こちらアジア側から乗って下りるとヨーロッパ
昼食は港町のレストラン。 
外へ出るとピスタチオ売りのおじさんがいたので買う。

今度はバスで 345km 約6時間

今日はトルコの独立記念日で制服を着た中学生がトルコ国旗を持って町を行進していた。
途中のテキザの町で休憩。トルコのお酒{RAKU] の生産で有名な町と言う。
とても強いお酒でお水で割ると白くなるのだそうだ。お土産に買ったけどまだ飲んでいない

初日にとまったホテルへ午後6:00に到着

ベリーダンスを見ながらの食事が9:00からなので時間が有るのでシャワーを浴びてから
ホテルのすぐ傍のテオドシウスの城壁とホテルの夜景を撮影しに出かけた。素晴らしい大城壁だった。

バスで10分ほどでベリーダンス会場へ
最初に男女6人でトルコダンスが始まり、続いてベリーダンスきれいで若くプロポーションの良い女性が
ステキな衣装でおなかをこれ以上震わせられないと言うくらいぶるぶる震わせて踊るのだ。
腹ダンスをしたり楽しい余興などが有っておいしいお料理とワインでいい気持ちで飲んでしまった。
部屋へ戻ると11時過ぎだった。

トロイの木馬と

2009/10/28(水) トルコ最大遺跡 エフェソスへ
バスはホテルを7:30に出発 今日の最初の見学はエフェソスの遺跡の見学
エフェソスの町は大変古くから発展し、大都市遺跡がそのままに残されていると言うトルコ最大の遺跡。
聖パウロが大劇場で大衆に福音を伝えたところだとも言う。
エフェソスまでは185km。(3時間30分)

途中革製品のお店に寄ったり、サンシュクと言う小さな町のレストランで昼食を取りながらエフェソスに到着。

最初にアルテミス神殿へ
ギリシャ神話における狩猟の女神アルテミスが祀られている壮麗な神殿だったらしいが
今では柱が一本復元されているのみで現在は夢の跡である。
世界の7不思議の一つだと言う。
今では貧しいトルコ人が住む部落のようであった。
強引な物売りのおじさんが何人もいて断るのに苦労した。

このエフェソスの地は紀元前3000年代にもさかのぼる建国で歴史上にも非常に重要な遺跡で見るべきところがたくさん有る。
かつてアレキサンダー大王が征服した町である。
ほとんどの建物が1世紀から2世紀に建設されたものが多くローマ浴場、公営アゴラ(市場、広場)
聖堂、音楽堂、市公会堂や凱旋門 公衆トイレット(下に水が流れる水洗式)、
中でも圧巻はセルスス図書館 12000巻の蔵書を有したと言う。
パピルスは当時エジプトから購入していたのでエジプトの神々の神殿が建てられエジプト人が多く出入りしていたと言う。
図書館の地下道には愛の館(売春宿)が有り男たちは図書館へ行く振りをして愛の館に行ったという話しを聞いて面白かった。
その当時の愛の館への道しるべもきちんと残っていた。

何度もこのエフェソスを訪れたと言うクレオパトラやシーザーがクレオパトラ通りと言われる
大理石の道を通りながらどんな話をしながら歩いただろう。不思議な感覚と感動を感じた。

そうそうナイキのデザインの元になったと言われるニケのレリーフもあった。
エフェソスには25万人の人口がいたと推定されている。トルコにはローマ以上にたくさんの劇場があったと言う。
オーケストラも付いて音楽会が催されたりパウロも伝道したこの大劇場は25000人もの
観客席が扇形に広がる大理石で作られた大劇場だった。

音響効果が如何にいいかを証明するために下へ降りていって劇場の真ん中で手を叩くとすごい!
響いて上のほうにまで全体に聞こえる音響の良さもしっかり実験をした。
その頃の日本は縄文時代から弥生時代だと思うと信じられない古代の人々の文化だと思う。

これらが異民族の侵入のため破壊されたが最もひどい破壊を与えたものは大地震だった。
繁栄していた商業の町、教育の町であった
エフェソスの崩壊し廃墟となった町は中性には全く意義を持たない存在となりトルコ人に占領されたという。

エフェソスの遺跡の大きさ、広さに驚かされる。
どの一つを見ても世界遺産に指定されるような所ばかりだけど世界遺産にはまだ指定されていない。
添乗員はまだ13%しか発掘されていなくてまだ87%の遺跡が地中に眠っているからだと説明されたが
私が何かの本で読んだのは遺跡から発掘された物以外の物を使って修復がなされたからと書かれていた。
柱の一部がコンクリートで固められていたのもあったからか?
修復した当時の人たちには世界遺産とかの概念はなかったと思われる。
今も盛んに発掘が行われ、クレオパトラの妹のお墓も発掘中である。(このニュースはまだ日本で新聞で読んで知っていたけれど)
 現在、観光できるのは遺跡の60分の1という。それでもものすごい広大。

いつの日か全部が発掘されて世界遺産になった時にはもう一度ここへ来て見たいものだと思うが・・・

遺跡の見学を終えてアイワルクまで250km 所要時間 約3時間のバス移動。

アイワルクまでのバスの車窓からはエーゲ海地域なので綿畑、イチジク、オレンジ、ざくろ、プラムなどの樹木や草木で緑が多くなる。
どこまでもどこまでも続くオリーブの森を走る。全世界に広がっているオリーブはこのトルコが発祥の地だと聞いてびっくり。

明日(10月29日)はトルコの独立記念日なので街々にトルコ国旗が掲揚されアタチュルクの肖像画が家々に飾られている。
アタチュルクの改革が無ければ私たちもこのイスラムの国になど怖くて旅行も出来なかったに違いないと思う)

エーゲ海のすぐ傍に立つホテルに着いたのは午後7:00ごろだった。

セルスス図書館 
この当時で12000巻の蔵書を有したと言うからすごい。

2009/10/27(火) パムッカレへ
トルコで最もイスラム色が強い町 コンヤ
コンヤの人口は97万8千人 11〜13世紀 オスマントルコ時代 首都がおかれていた町で
全盛期には政治・文化・芸術の中心地として栄えた。
古都コンヤには今でも
その頃の遺跡やモザイク・レリーフなどが残り、美しいイスラム芸術を堪能できると言うから楽しみ。
イスラム神秘主義教団(メブラーナ教)の発祥の地でもある。
この町はイスラム教の盛んなところでスカーフの女性や髭を生やした男性が多い。

メブラーナ博物館 
メブラーナ教の始祖メブラーナが祀られている。青緑のタイルで飾られた霊廟の塔が目を引く。
入口にシャワーキャップみたいなビニールが置いてあって、それを靴に着けて入る。
セルジューク期の芸術品、メブラーナを始めとした聖者たちの棺も展示。扉や館内の華麗な装飾が美しい。
16世紀に織られたというシルク製の絨毯が飾ってあったが400年を経た現在でも今追ったばかりのように美しい。
イスラムの祈りは聖地メッカを向いてモスクでも家庭でもこの絨毯の上で行われていたという。
絨毯には宗教的意味合いの柄が描かれてあって頭を下げるたびにこの柄を見るそうだ。
円筒形の帽子をかぶりスカートで右手は天を指し左手は地を示してクルクルと旋回することによって
トランス状態になって一心不乱に踊る姿は幻想的だというが今では過激な宗教活動として禁止されて
毎年12月に観光用として公開されているという。

次にインジェミナーレ博物館
インジェ・ミナーレとは細い尖塔という意味でイスラム教の神学校として建てられ現在はイスラム関連の彫刻を展示してある。
建物全体が芸術的で特に正面入り口の細かい浮き彫り彫刻が繊細で美しかった。
イスラム神秘主義について見学のあとパムッカレへと向かった。

パムッカレへ向かう途中の日本語ガイドのトルコ人のツナ氏の楽しい話を一つ。
「屋根の上の煙突にサイダーの瓶やコーラの瓶が立てて乗せてあるけど何だと思いますか?」分からないよね〜〜〜
「ではお話しましょう。あの家には結婚適齢期の若い娘さんがいますよという印なんです。
コーラの瓶ならウエストが締まったスタイルがいいですよ。サイダーやジュースの瓶はあまり良くない人。
二本上がっているのは二人いると言う意味。逆さに乗せてあるのは離婚した出戻りがいるという意味。
男性の場合は大きな石を乗せています。所変われば習慣も変わるもの。バスの中は大笑いだった。

トイレ休憩に寄ったディナルという町でこの町にしかないというヨーグルトを食べてみた。
固いヨーグルトの上に蜂蜜を乗せてケシの実を振りかけてスプーンでよくかき混ぜて食べるのだがとてもおいしい。
店員のパフォーマンスが面白い。
ちなみにヨーグルトはブルガリアが発祥だと思っていたけれどトルコが発祥の地でブルガリアに伝わったと言う。
それにオリーブもさくらんぼもアンズ、アーモンド、イチジクなどの原産地もトルコだって。これもびっくり!
それに国花となっているチューリップの球根は1500年代にイスタンブールからウイーンに持ち込まれ、
英国やオランダで非常に人気のある花になって今やチューリップはオランダということになっているけれど
これもトルコが原産地だそうだ。チャイのカップはこのチューリップをかたどっている。

なだらかな丘を越えると突如白い綿の塊のような大地が見えてくる。綿の城パムッカレだ。
パムッカレは綿の城の意味でかつて綿の産地であったことに由来する。
トルコ有数の温泉地で近くにはぺルガモン王国やローマの時代に繁栄した古代都市ヒエラポリスが有るので
石灰棚とヒエラポリスは世界遺産に登録されていてトルコを代表する観光地の一つで私が今回一番楽しみにしていた所だ。

先にヒエラポリスの遺跡を見学
石灰棚を臨む丘の上に、紀元前190年頃ぺルガモン王エウメネス2世によって建造された
古代都市の遺跡で最盛期には人口10万人を数えたとも言う。

ローマ皇帝ハドリアヌス帝やカラカラ帝、貴族や富裕階級が保養のために頻繁に訪れたと言われ
紀元前2世紀にハドリアヌス帝が築いた円形劇場やアポロ神殿浴場出土品を納めたヒエラポリス博物館などがある。

遺跡プールがあってクレオパトラプールと名付けられていて温泉水をそのまま利用したものだと言う。
水底にローマ時代の敷石や円柱が転がっている中で泳いでいる欧米人がいっぱいいた。

世界でも例を見ないパムッカレ石灰棚の景観は自然の作り出した芸術作品と言われている。
丘の斜面を数千年間のはるかなときの流れを経て流れ続ける鉱泉により魅惑的な石灰棚が形成された。
段々に連なる真っ白な石灰棚にたまった温泉水の池が刻々と変化する。石灰分を多量に含む湧き水が
台地から溢れ岩肌を伝わり長い年月のうちに沈殿し凝固した石灰華岩が斜面を覆いつくし更に積もって
幾重もの棚を形成したという。棚のプールは大小合わせて100以上もある。
中国の九賽溝にも似ているが裸足で入れると言うところがいいな。
遠い昔に死んだ無数の貝や甲殻類の数え切れない死骸が石灰となってはるかな時の流れと共に
パムッカレのような奇観や九賽溝のような美景を作りだしたのだという。
色んなことを思い起こした不思議な時間が私を襲った。

遺跡保護のためみんな裸足になって靴を入れるビニール袋とタオルを持って入る。
滑らないように気をつけてと言ってる傍から転んでいる人がいる。
思ったより温かい水。足湯をしたあとは体全体が暖かくなって気持ちよかった。

帰りには夕陽もすっかり沈んでライトアップされた石灰棚もとてもきれいだった。
ここからバスで10分で今夜の宿 ホテルボラットサーマルに着く。
コンヤのホテルはパムッカレの温泉プールつきのホテルなのでおいしい夕食を食べた後は水着に着替えて泳ぐ。
プールの深さは160センチもあるので足が付かないので途中で立つことは出来ない。
久しぶりの水泳で体全体の疲れが取れて夜はぐっすりと眠ってしまった

2009/10/26(月) カッパドキア
朝目覚めてバルコニーに立つとそこは一面にカッパドキアの奇岩群の素晴らしい眺めだった。
太古の昔、火山の噴火によって堆積した溶岩や火山灰が長い年月の間に侵食されて出来た奇岩群で大地の広がる
幻想的な風景は本当にここが地球上かしらと思うほどの不思議な町 こんな景観の所が本当にあるのだとひたすら感嘆するのみ。

朝食前に洞窟ホテル内の庭を散歩した。
昨夜到着した時は夜になってしまって分からなかったけれどホテルは庭も広く岩をくりぬいた古代のお城のような建物だった。
カッパドキアに何十個もののバルーンが上がっていてまさに異国にいるという感じだった。

ホテルのすぐ近くにある「鳩の谷(ピジョンバレー)」と呼ばれるところで確かに鳩が多い
こちらの鳩は雌鳩に求愛を示すとき雄鳩が宙返りをして見せると言う日本ではない習性があるらしい。
それを聞いて上を向き鳩のバク転を何度も見る。

カッパドキアはワインの産地でありその葡萄の木を育てるために鳩の糞を利用していると言う。
そのために岩山にたくさんの小さな穴を開けて鳩に住んで貰っているので鳩の谷と呼ばれていると言う。

次はカイマルクの地下都市、
古代ローマ時代にイスラム教徒の迫害から逃れるためにキリスト教徒たちは地下へ身を隠した。
天井は低く細い通路がまるで蟻の巣のように迷路になって地下へと伸びている。
一人で入ったらとてももう地上に出ることは出来ないと思う。
入ったけれど未だに出てこない人が複数いるらしい。
巨大な地下都市は深さ55m地下8階層で約1万5千人の人が地下で生活できたと推測されていると言う。
今は地下4階までしか公開されていない。
教会、ホール、居室、台所、墓地、家畜小屋、ワイナリーまである。岩盤を掘って作った粉引き 
ワイン作りの水槽などが狭いトンネルや階段で結ばれている。
地表に抜ける通気口もあり煙突の役目もしている。岩で出来た厚い円盤状の回転扉もそこここにあり
侵略者が来た時にこれを転がして通路をふさいだ。秘密の抜け穴や侵略者を欺くための道路も作られていた。

ここまでの地下都市を作るのはどれだけ大変だったか苦労は計り知れない思いがした。
周囲には十数か所の地下都市が存在すると言う。

次はトルコ絨毯の店に案内された。長い伝統を持つトルコ絨毯
日本ではペルシャ絨毯が有名だが
絨毯を最初に創り出したのはトルコ民族だとという。その伝統は2500年前までさかのぼる。
トルコ絨毯がいかに素晴らしいかを聞き織り子達が手織りで織っている所を見学する。とても素晴らしくていいとは思うけどとても手が出ないお値段で買えない。
手だ触ったり足の感触を楽しんだりした。

絨毯のお店を出てからカッパドキア観光
アナトリア高原の中心に広がる大奇岩地帯はきのこ上の岩に代表される不思議な景観が広がる。
スリーシスターズと呼ばれる奇岩の前で写真撮影
トルコの青年が二人寄ってきて一緒に写真を撮って下さいと言われて彼らと仲良く写真に収まる。とても親日的。

それからキノコ岩が林立するゼルベ野外博物館へ
キリスト教の修道士たちが住んだ残された教会や修道院を見学
初期キリスト教の時代から
聖像禁止時代以前、以後の歴史を経て常に修道生活意、信仰の中心だったところだそうだ。
洞窟教会のそばのお土産売り場に日本人の可愛い若い女性の店員がいた。聞いてみると
静岡県出身でトルコ人と結婚して子供が一人ここで働いていると言う。トルコはとても住みよい国だと言っていた。

次はパシャバァ。パシャバァはまるで妖精の煙突が立ち並んでいるようだった。
昼食はやはりカッパドキアの地形を利用して建てた洞窟レストラン。中はひんやりとして気持ちが良い。

昼食後ギョレメ博物館へ。ギョレメとは「見てはいけないもの」という意味だそうだ。
ギョレメには最もキリスト教徒が多く身を隠して住んで入るところを発見されないようにギョレメと名付けられたそうだ。
たくさんの岩窟教会、(どこの教会の天井や壁にも見事なフレスコ画を残しているがキリストやマルヤのイコンは痛ましいほどにすべて顔がえぐられて傷だらけのイコンだった。)
女子修道院、岩を掘った家々と縦抗。

このカッパドキアの地で迫害を逃れ何万のキリスト教徒たちが地下生活という困難な生活の中で
質素に暮らしながら毎日何を思い、そして今は一人としてその末裔がいないカッパドキアを思うと
異様な風景と共に違和感と言うか悲しみというか複雑な思いに駆られた。まさに神の力とも感じられそうな
大自然のこの造形の中でひっそりと暮らし続けたキリスト教徒たちの目にこのカッパドキアの風景はどのように見えたのだろうか?驚くべき歴史と景観を深く心に重く重く受け止めた。

ギョレメのお土産やさんではナザールボンジュウという一つ目のキーホルダーや壁掛けなどが売られていた。
日本ではギョロメだな(~_~)魔よけになるというのでお土産に求める。
その他いくつかのビュウポイント ユルギュップ ウフラーラ渓谷 ラクダ岩 猟師の谷などをみて回る。
猟師の谷ではトルコ名物の伸びるアイスクリームを食べる。

ギョレメの町に朝日が昇るとだんだん石の色が赤みを増して時間帯によって全く違った風景に見えるという
その景色は今や夕陽を浴びて何か寂しげな傷心のカッパドキア
を後にしてスタルハンのキャラバンサライ(隊商宿)まで走る。

コンヤからカッパドキアまでの道はかつて絹と香辛料の道として東西の人や物が行き交った歴史的な
シルクロードに立地していてシルクロードの時代、40kmに一ヶ所ラクダと共に商人たちの宿泊所として
キャラバンサライが設けられていたという。
ここでトイレ休憩。有料トイレで0.5リラ 日本円で30円ぐらい 店はウスキュダルの曲が流れていた。

今夜のホテルはコンヤホテル RIXOSに7:30に到着
ホテル内のレストランでは三人のトルコ青年が生演奏でトルコの音楽を演奏してくれている。
ブラッドピット似のハンサムな青年だった(~_~)

鳩の谷 ウチヒサール

2009/10/25(日) アンカラへ
トルコは今日でサマータイム終了で今日から冬時間 時計を1時間遅らせる。
日本との時差は7時間になった。
朝目覚めると今日もお祈りの声が聞こえる。
今日はトルコの首都アンカラへ210km約3時間 


今日は古い隊商宿を改造した世界で一番美しいと評価されていると言う「アナトリア文明博物館」の見学

アアナトリア文明初期の遺物やヒッタイト王国の収蔵物では世界的に知られている博物館。
展示品は回廊に沿って旧石器時代から始まり近代までの貴重な品々が年代順に展示されている。
数々の石器や焼成粘土で作られた地母神像、石や骨で細工されたビーズの装身具や黒曜石の鏡や化粧道具 
とてもたくさんで見切れないので急ぎ足で見たがこれだけを集めてあること自体がすごいと驚嘆した。

昼食は案からの歴史的な駅(オスマントルコ時代)
アンカラ駅構内にあるレストランでで昼食。
食後とっても広いホームがめづらしくて写真を撮ったりしているとアンカラエキスプレス
が入ってきた。この列車に乗りたいが為にだけトルコに来ると言う人もあると聞いている
あの有名な列車でうれしくなった。


アンカラはアンゴラ山羊からの命名らしい。
街はイスラムの色が濃くベールをかぶった婦人たちが長いスカートをはいて歩いている。
子供たちはほりが深くとても可愛らしい。


昼食後次に向かったのは
栄華を誇ったかつての大帝国「オスマン=トルコ」が欧米列強の前に、断末魔の状態であった20世紀初頭に
登場してトルコの近代化を推し進め徹底した政教分離を成し遂げトルコ共和国の初代大統領に
選ばれた[トルコ建国の父]と言われるムスターファ・ケマル氏の眠るアタチュルク廟の見学。

敷地の広さに驚く。廟の大きさはもちろん、そこまでの参道の広さと長さに圧倒される。
参道の左右には、白いライオンの像が並んでいてライオンの道と呼ばれている。
ヒッタイト時代の象徴だそうです。
廟の両脇には直立不動の衛兵が警備 していてまるで人形のようにピクリとも動かない。
トルコには徴兵制度があるという。

正面奥には、本当のアタチュルクの遺体が眠っているという。
彼の遺言によりこの廟はトルコ国内で産出した石材だけで造られていると言う。
内部のステンドグラスとか装飾すべてに圧倒され驚嘆した。


アンカラの観光を終えて

さあ〜これから更にカッパドキアまで290km 約4時間30分の長距離のバスのたびだ。

アンカラから1時間位走った頃「トゥズ湖」と呼ばれる塩湖で休憩。
日本では見ることの出来ない不思議な光景。
アナトリア中央部に位置する広大な塩の湖、33%と言う高濃度でトルコで消費される塩の約70%を生産していると言う。
その面積は琵琶湖の2倍もあるというがこれでもトルコでは2番目に大きな塩湖だと言う。
広く広くただ真っ白にどこまでも続いている。
掘ってなめてみたらとってもしょっぱかった。(~_~)

そして又信号も無くただガソリンスタンドだけが両側に現れてくるだけのカッパドキアまでのまっすぐな道をひた走る。
1時間毎の休憩にアップルチャイなどを飲みながらカッパドキアのホテルに到着したのはもう日も落ちた7時過ぎだった。

今夜の宿 洞窟ホテルはウチサルの村にある
ウチサルは自然の岩山で見張りにしていた岩でホテルの名前は「ウチヒサールカヤ」
人里離れた不便なカッパドキアの洞窟ホテルなのだから多少の不便は仕方ないと思っていたがそれは大違い。
入り口は洞窟をくりぬいてあるけれど一歩中へ入れば高級ホテル!
部屋の設備も食事も素晴らしい。窓から眺めるカッパドキアの風景がこれまた素晴らしい。
ここに泊るのは普通の旅行ではオプションで更に1万円の追加料金が取られるしそれに
ホテルも少ないし部屋数も少ないので予約もなかなか取れなくて泊るのは大変らしい。

おいしいトルコワインを飲みながら夕食を済ませ、部屋へ戻丁度日曜日なのでNHKのテレビで
「天地人」をやっていたので家で録画予約をしてきてあったがベッドで寝ながら見てしまった。



[トルコ建国の父]と言われるムスターファ・ケマル氏の眠るアタチュルク廟
とてつもなく広い。

2009/10/24(土) サフランボルへ
イスタンブール 起床5:00 
どこからとも無くコーランの低い声が聞こえてくる。
あ〜イスラムの国に来ているのだな〜と実感する。

アジアとヨーロッパにまたがって東西文明の接点になっているトルコ最大の都市
さまざまな人種、さまざまな文化が混ざり合い一つの個性を作り出している。
ボスポラス海峡で大きくアジアサイドとヨーロッパサイドに分けられている。

ヨーロッパサイドはコンスタンチノープルの城壁に囲まれていたエリアが主な観光だが
それは最終の日まで取っておいて今日はアジアサイドのシーフード料理や有名なウスキュダルの町から
ヨーロッパサイドの側のパノラマビューを見る。

江利チエミの歌で有名な「ウスキュダル」は今まで知らなかったけどトルコの
地名でトルコの歌だったんだと再確認した。
土曜日なので海沿いでは大勢の人たちが魚釣りを楽しんでいた。
大きな魚が釣れた人に
「良かったね!なんていう魚?」なんて日本語で話しかけると
嬉しそうにトルコ語で何か答えてくれる。
言葉は分からないけど何となく意思疎通が出来ているようで楽しかった。(~_~)

海岸から200m沖合いに伝説の多い「乙女の塔」が浮かんでいる。
対岸には旧市街のガラタ塔やトプカプ宮殿、アヤソフィア聖堂、ブルーモスクがかすかに見える。


ウスキュダルを出てバスは395kmを5時間30分走って世界遺産となっているサフランボルに向かう。
途中昔ナイチンゲールが働いていた建物(病院)がそのまま残っている。
今日は土曜日でお休みなので車が少ないと言うことだ。日差しも強く夏のようだ。
北海道のようにどこまでも続く大平原 牛の放牧が見られる。ポプラの木が目に付く。
トイレ休憩を兼ねてレストランで昼食。トマトスープ、なた豆、チキン チャイ、パンがとてもおいしい。
普通トイレは有料で1リラの半分の50クルシュ払うのだがレストランは無料
平らな四角いトイレで水道の蛇口にホースが取り付けてあったり、小さなバケツが
置いてあったりして自分で水を流すのだ。
お土産屋さんにはドライフルーツや香辛料などが山となって積まれている。

ブドウルルックの丘に着いた。ここからはサフランボルの街が一望出来る。
この街が17世紀の世界のままだと思うと感無量。

かって香料のサフランの花が群生していた事から名付けられたサフランボルは17世紀から
19世紀のオスマントルコ帝国時代に隊商都市として繁栄した町で木と土壁で造られた
トルコ独特の家屋は今も数多く残り人が暮らしている。
この美しい街並みが1994年サフランボル市街として世界遺産に登録された。

丘を下って17世紀当時のままの石畳を歩きバザールを見て回る。
この街へきて一番気が付いたところは
普通の少年少女たちが気軽に「こんにちは!」って日本語で声をかけてくれるところ。
日本ではこういう事ってあまりない。
一緒に写真を撮ってと自分から言ってきてくれてカメラに収まる。
遠い別世界と思っていたトルコに住む人たちの多くは日本好き、日本が誰も好きだと言う感じだった。とても嬉しかった。
それにとっても明るい。

夕食が済んでから夜は遺跡がライトアップされるというのでジンジ・ハマムのあるチャルシュ広場まで散策する。
当時の石畳を踏みながら300年も前の昔の生活の雰囲気が完璧に味わえて
独自の文化に触れられ気分が高揚した。
ウスキュダルの歌の歌詞にもあるトルコ名物の甘いお菓子「ロクム」がおいしいと有名な
お店でサフランとピスタチオのロクムの試食をしてお土産を買う。

ホテルは世界遺産である景観を守るために街の住居にも厳しい制限があるので
かつての民家をホテルに改装したもので設備は整っていなくてバスルームの入り口が
戸棚で当時の物入れをシャワー室に直しただけのもの。
私は「タンスにゴン、タンスにお風呂」なんてジョークを言いながらも
趣のあるそのかわいいホテルが気に入った。


モスクのあるバザールを歩く

2009/10/23(金) いざトルコへ
タクシーを7:00に頼み静岡駅へ7:25
新幹線ひかり7:42〜品川8:49〜成田エクスプレス〜成田空港第一ビル9:58
若い可愛らしい大石添乗員と日本各地からの参加者20名
トルコ航空 直行便
12:50のフライトが遅れて13:30発 所要時間 12時間50分
15:00に一回目の機内食、窓の外を見ると尾瀬らしい草紅葉を挟んで至仏山とひうち山と思われる上を飛んでいた。
12:00 2回目の機内食 日本時間では真夜中の12時だが現地時間ではPM5:00なので夕食になる。
とても食べられないが少しだけつついてしまう。
現地時間20:00に到着 機内から見下ろすイスタンブールの夜景がとても美しかった。
空港で両替をしてホテルに21:00到着。

トルコ人ガイドのtuna氏がトルコでの注意点
1.生水は絶対に飲まない。歯磨きの口すすぎ位はいい。
1.一人で外出はしないこと
1.トイレは有料 50クルシュ(1リラの半分 50円くらい)
1.バイキングの食事の仕方。食べ過ぎてお腹を壊さないように

機内でガイドブックで勉強したトルコという国は

ヨーロッパ大陸とアジア大陸にまたがり、北の黒海と南のエーゲ海・地中海を繋ぐボスポラス海峡
マルマラ海・ダーダネルス海峡によって隔てられる。
日本と同じように四季があるので日本と同じ季節感覚でいいけれどエーゲ海沿岸や地中海沿岸、
黒海沿岸と中部アナトリア、イスタンブール周辺とか国土が広く地域によって気温や降水量が違う。

国土の大半の部分はアナトリア半島にあたり、半島の中央に広大な高原と海沿いの狭小な平地からなり、
高原の東部はチグリス川・ユーフラテス川の源流である。

東部イラン国境近くにはヴァン湖とアララト山(国内最高 標高5166m)

国民の約99%がイスラム教(宗派はスンニ派が多数)を信仰する。
NATOに加盟しており、
現在欧州連合 (EU) へ加盟申請中である。

気候帯は内陸は冷帯気候・ステップ気候で夏は乾燥し、冬は寒く積雪が多い。地中海沿いなど海に近い部分は
地中海性気候で、オリーブなどの生産が盛んである。

トルコは国内に多くの断層をもつ地震国であり、1999年にはイズミルからイスタンブールにかけての
マルマラ海沿岸の人口密集地で大規模地震が起こり、大きな被害を受けた。なお、他の地震国の多く同様、
国内に数多くの温泉が存在し、中にはヒエラポリス-パムッカレなど世界遺産の中に存在するものもある。

北は黒海、南は地中海に面し、西でブルガリア、ギリシアと、東でグルジア、アルメニア、イラン、イラク、シリアと接する。

首都イスタンブールは、ビザンツ帝国、オスマン帝国と合わせて1000年の間、都として繁栄した。
イスタンブールの栄華を象徴する建築群が数多く残っている。

日本との時差は7時間 サマータイムを採用しているのでこの旅では6時間。

言語はトルコ語 クルド語 アラビア語
トルコの水道水は飲用不可(毎日水を買った)
トイレの表記は 男性はBay 女性はBayan 
日本の和式トイレのようだが平面になっていて小さなバケツが置いてありそれに水を汲んで流す。
入り口に係員がいてお金を払う(1リラ〜0.5リラ)

チップの習慣は無い。


機内から眺めたイスタンブールの夜景

2009/10/22(木) HP お休みします
明日から10日間留守になりますのでHPお休みします。
よろしくお願いします。

2009/10/04(日) 茅ヶ岳〜金ヶ岳 縦走
茅ヶ岳はいつもピストンばっかりだったけれど今日は山の会でバスで行くので金ヶ岳を縦走して明野ふれあいの里に下りる。
別名「ニセ八つ」と呼ばれて不遇の山だったが最近は深田久弥氏の終焉の地が浸透したのか
人気が出てきていつも頂上はいっぱいだ。
本当は見晴らしがとってもいい山で頂上に立てば八ヶ岳の左遠くに槍、穂高乗鞍まで見えるし南アルプスの聖岳、
南には毛無、富士山、大菩薩、国師 金峰 瑞垣など・・・
でも今日はあまり展望はきかず金峰 瑞垣や鳳凰、などが見えた程度だったがそれでも秋の山は気持ちよく
久しぶりに達成感の感じの山でなくほっと嬉しいなごみの山に登った感じ。

金ヶ岳は茅より60m高いだけあって急登もあり急坂もあり変化に富んだ楽しい山で明野までの長い下りも退屈しなかった。

花はアキノキリンソウが咲き始め、マツムシソウ、リンドウ、ユウガギクなどが楽しめた。
トリカブトがもうタネになっているのを発見。今まで見たことが無かったので新鮮だった。


 Copyright ©2003 FC2 Inc. All Rights Reserved.