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2010/03/06(土)
同志は彼の地へ
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深沢七郎氏は「流転の記」で 「人間の臨終も引っ越しと同じように思えるのだ。 そこの窓のふちの玉目も、天井の板の目も、障子のさんの板の目も、 そこの窓から見える隣の家の板塀も、目に見えるものと 別れていくのである」と書いている。
先日、ワンセルフを一緒にやっているM田さんの高校の友人が 心筋梗塞で突然亡くなったとのことで、 「あの世にはお互いに何も持っていけないのだから、ケチらず、 会社のテーブルをもう少し買おう」と話していて思い出したのが、 上述の深沢氏のきっぱりとした美しい文章。
そして今日は月に一度の通院日なので、 主治医のクリニックの待合室にいたら携帯が鳴った。 患者仲間で再発転移治療中のK子さん http://aliceblue-25.at.webry.info/ からだったので、 慌てて外に出て電話に出たら、 女の声でなく、男の声がしたので、即、全てのことがわかった。 ご主人からだった。 今月に入り病状が突如悪化し、昨晩亡くなったそうだ。 今までもがん仲間は何名か亡くなったという連絡は受けているが、 彼女とは入院先で知り合い、 「アンパントリオ」と称していた。(←もう一人同志がいる) それは奇しくも同時期に同じ40代で進行性乳がんだったから。 この10年、絶えず連絡を取り合っていた間柄だった。
近しい人の死を知ると、 そうだ、自分もそのうちにいなくなるのだ、と改めて思う。 こうやって月に一度は病院に行っていたって毎日生きているので、 ついついそんなことを忘れて暮らしている。
会社のテーブルも前から買い足そう、足そうと思いつつ、 また引っ越すとき大変だよね、高いね、と言ってやめていた。 でもよくよく考えると、自分のもの、自分の会社のものなど、 有限の人生を考えると、本当は何もないのだ、と思えてくる。 ただ、この身体と、感情と、体験と、感覚、そして思い出。 そういったものだけが自分のものなのだろう。 膨らんできた桜の蕾を鑑賞したり、 雨に濡れた石をきれいだと思ったり、 親しい人がいなくなるのを哀しむことは、 まぎれもなく自分の何か一部だと言える。
朝の屋根に乗った露のきらめきのような、 手ではすくい取れなくて、 うまくデジカメでも撮れないものこそ、 それだけが自分に属するものだと思えてくる深く濃い夜。
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