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2008/08/13(水)
『#56 ASIA 〜 パキスタン』
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『民族』 8/10 ルンブール谷
チトラールを出たジープは谷の中に入っていた。 やがて谷は二又の別れ道になると、僕はそこで下ろされる。 ここから先、ジープは左道のブンブレッド谷へ向かう。 一方、僕は右道の「ルンブール谷」へ向かう。 「どれ歩きますか!」 ひとつ気合を入れて歩き出すと、すぐに車がやってきた。 「乗っていくかい?」 どうやら彼らはルンブール谷の人間のようだった。 どうやら僕はついている。 僕はこうしてなんなく「カラーシャ族」の暮らす谷にやってきた。
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鮮血が辺りに飛び散る。 「今日は祝いなんだよ」 僕には何の祝いかも分からないが、男たちは「メッ」と力なく鳴くヤギの首にナイフを入れた。 すると真っ赤な血が水道をひねったようにジャーッと流れ出る。 ヤギはすぐに大人しくなる。 男の一人は溢れ出る血を両手を差し出して掬う。 僕には何の祈りだかも分からないが、男は近くの雑草にその血を祈るようにかけた。 澄んだ緑の葉が赤色に染められていく。 一方、死んだヤギは釜のある家に運ばれ、石のまな板の上に置かれた。 そしてすぐさま、ある者は腹にナイフを、ある者は鉈で骨ごとブツ切りにしていく。 すぐにヤギであったものは豪快にばらされ、薪でぐつぐつ煮立つ湯に放り投げられていく。 僕は目を見開いてその光景を眺めていく。 素っ裸の少年たちはそんな僕を興味津々に見つめている。 ヤギの頭蓋骨は直接火にくべられ、焦げた毛や肉を削ぎ落とすと、家の前に飾られた。 「女は食えないしきたりなんだ」 やがて茹で上がった肉に男たちだけがむしゃぶりつき始めた。 「うまいかい?」 「うまいうまい」 僕もそれに習ってむしゃぶりつく。 ただヤギの肉は羊のように臭みが強く、ゴムのように弾力性が強いのでなかなか噛み切れない。 それでも僕はなんだか嬉しくって、長いことヤギ肉をしゃぶり続けた。
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イスラム教一色に塗り潰されたパキスタンで、独自の土着の多信教を信じている一族がこの辺り3つの谷に住んでいる。 カラーシャ族。 「万物に神は宿る」 どうやらその宗教観はどこか日本に似ている。 名もない宗教を信仰している彼らはこの国で「カーフィル(異教徒)」と呼ばれ、いわゆるイスラムパキスタンとは全く違う顔を持っている。 カラーシャの女たちはそれぞれ思い思いの鮮やかな刺繍の入った民族衣装と数百の宝貝をびっしり縫いこんだベロの付いた帽子、人によっては100を超える赤、黄、橙のネックレスで着飾られている。 ピンク、黄、赤、青、緑。 老いも若きも子供も全て、女という女はカラーシャ独特の民族衣装で着飾られている。 西洋の血が感じられる端正な顔立ちの女性たちがこの衣装で炊事洗濯をし、井戸端会議に耽っている姿を見ると、もうそれだけでこの土地に来たことを感謝してしまう。 一方、男は普通。 なんだかな。 どこの国でも男の衣装ってのはなんだかなと相場が決まってる。
谷には澄んだ小川が流れ、小麦、トウモロコシ、麻畑が広がり、喧騒や混沌といった慌しい空気はどこにもなかった。 澄んだ川沿いに転がる大きな石に座ってぼーっとしていると、涙腺が緩み始める。 「…なんだか泣きそうだ」 気を緩めたら泣きそうなくらい綺麗な景色と空気が満ちていた。
民族。 谷の人間。 独自の文化。 とかなんとか。 今日からしばらくはイスラムを離れ、カラーシャの人たちを覗いてみよう。 そうしよう。
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