小北ゆきひろの日記
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2007/04/08(日) 33南山焼と浅井周斎
浅井周斎(17201800)は、短賢・鳳州園と号し、八幡の地に生まれた幻の焼き物「南山焼(なんざんやき)」を創始した人である。
徳川吉宗の時代、享保5年(1720)に生まれた周斎は、大坂で鉄を扱う商人として2万両ともいわれる財をなしたが、晩年にこの家業を捨て、男山の麓に居を構えた。
八幡での彼の生活は、法華経を唱えて修行し、その他茶の湯、詩吟にも通じていたという。特に彼が没頭したのは作陶活動で、八幡南山に窯を作り、そこで焼く器の底には「無」の字を刻し、これが「南山焼(なんざんやき)」といわれた。その作風は「高雅にして韻致あり、陶業界に一機軸を顕し・・・」と高く評されたという。
周斎の人物像も、きわめて清廉、欲のない人であったようで、その財産は、作陶活動や貧しい人の救済に当てられ、また、円福寺の建立にあたって3万坪の土地を寄進した。そして、寛政12年(1800)、80歳で亡くなったときの所持金は、200文にも満たなかったという。円福寺境内には、小さな浅井周斎のお墓がある。

(ぶらり八幡浪漫街道をゆく:より引用)


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