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2007/02/07(水)
31海を泳いできた八角堂の仏様
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御堂は市内最大の前方後円墳である西軍塚古墳の円頂部に建っている。 もとは男山西谷にあったが、神仏分離令によって八幡宮境内から仏教関係の堂舎・仏像などが撤去された際、正法寺住職が堂宇・尊像とも迎請し、この地に移したものである。 堂舎は順徳天皇の御願によって、八幡宮検校善法寺祐清が建保年間(12131219)に建立したもので、後に大破。慶長12年(1607)8月、豊臣秀頼の御願によって尾張国小出大和守吉政が再建した。 元禄11年(1698)7月、社務の善法寺央清は勧進を募り、堂宇を再興した。堂内に安置されている金色の丈六阿弥陀仏(重文)は鎌倉時代初期の作で、中品中生の説法印を結び、十三体の化仏を配した大きな光背を後に付している。ために本尊と化仏を対比し、一光千仏といわれている。 仏像の手の指の間に膜のようものがついている。これは八幡神の遷座を慕って、仏像が海を泳ぎ渡ってきたときの水掻きであるという里俗の伝説がある。流転を経て色あせた八角形の異形は、なぜか周囲の雑木と竹林にみごとに調和している。
(ぶらり八幡浪漫街道をゆくより引用)
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