小北ゆきひろの日記
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2005/08/19(金) 06地名になった高坊
男山四十八坊のひとつ、「高坊」の名は男山麓の地名として残った。
高坊は何度かその所在地を変えている。その成立は長歴長久年間(1037-1044)だと考えられている。初めは神應寺領内の山に建てられ、坊の庭には不動谷の流れを引く風流の趣をもったもので、高坊の名はその在所、有り様に由来したものだった。『旧記』によると、高坊は皇居にも準えられ、「障子絵は、紫宸殿の賢聖の障子を写し、荒海が描かれ、庭前の小山、立石は風流の極みで、荘厳であった」そうで、上皇の御幸や天皇の行幸の際の休憩所になった。このことから『公文所家記』などの古書の中に高坊を「宿院」と記すものが散見される。
康平5年(1062)の別当清秀の時に、中門と長い廊下を増築。続いて建保6年(1218)10月22日には、随身所が増築されたが、永仁6年(1298)の冬に焼失。その3年後の正安3年(1301)に再建のための造営が行われた。観応3年(1352)4月25日、宿院合戦のときに神宮寺が炎上、高坊も類焼したものと思われる。
(ぶらり八幡浪漫街道をゆくより引用)


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