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2005/08/15(月)
02神應寺と淀屋辰五郎
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一の鳥居右の道沿いにいくと、神應寺の山門が見えてくる。貞観2年(860年)、石清水八幡宮を勧請した行教建立の寺で、はじめは「應神寺」といったが、天皇の号をはばかり「神應寺」と改めた。 文禄年間(1592-1596)、征韓の役にあって豊臣秀吉は、石清水八幡宮に詣で、軍の先鋒に神官を望んだが、神社側は恐れて命に服さなかった。秀吉は機嫌を損ねたが、神應寺住僧の機転で、征韓の首途にはまず應神天皇の御寺に参詣すべきと進言。秀吉は機嫌を直し、寺領200石を寄進した。 本堂西側の小高い墓地には、江戸時代の豪商、5代目淀屋辰五郎が眠る。大阪の「淀屋橋」は淀屋が架けた橋である。「一刻の商いが80万両に及ぶ」という米市を初め、幕府や西国33ヵ国に総額15億両という大名貸しを行い、その威力は百万石の大大名も凌ぐ前代未聞の大豪商であった。5代目辰五郎のときに、幕府から「町人の分限を越え不届き」として闕所(財産没収のうえ所払い)となる。時が経ち、御赦免となった辰五郎は再び八幡に帰ってきた。辰五郎の胸の内は、彼の戒名「潜竜軒咄哉个庵居士」に答えが見え隠れする。 (ぶらり八幡浪漫街道をゆくより引用)
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