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2005/11/24(木)
17太西坊と赤穂浪士
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太西坊は、男山にあった四十八坊の一つで、石清水八幡宮本殿北側にあった。 太西坊の住職、専貞は赤穂の大石内蔵助良雄の実弟であった。元禄14年(1701)3月14日、浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に刃傷に及んだ「松廊下事件」が起こる。その7日後の3月21日に大石良雄は太西坊に対して「城はいずれ明け渡さなくてはならないから、浪人となる1415人の仮住まいを探して欲しい。できれば男山の麓か山崎、山科、伏見、大津あたりで見つけて欲しい」という書状を送っている。このあと、大石良雄が江戸に下向するとき、太西坊に立ち寄り、仇討ちの大願成就を石清水八幡宮に祈願したといわれている。また、太西坊専貞の弟子の覚運は、大石良雄の養子となった人で、後に一時衰退した太西坊を再興した。太西坊の紋は二ツ巴を用いたと言われている。 石清水八幡宮本殿北側には、ひときわ大きい太西坊の石灯籠が残っている。 (ぶらり八幡浪漫街道をゆくより引用)
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