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2007/09/22(土)
感想文?
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実は20日の日記では、その日ついに読み終わった「白痴」についての感想と私の見解などを書きたかったんですよ。まぁ内容の差し替えとは言わないまでも、別に今日書いても問題は無いんで、今日の日付で書かせていただきますね。 こういった「読書」や「論文」といったものが苦手、嫌いだという方は、今日の日記はスルーしていただいて結構です。
この本について、「どこまでネタバレをしたらいいのか?寧ろどこまでネタバレすれば大丈夫なのか?」ということについては、私がここに述べる上で非常に考えたところなんです。そこへ至った経緯や思想、流れなどは本を手にとって読んでいただくとして、私の中では「結末」とそこにあった思いなどについては簡単に書くなら問題ないという結論になりました。 前置きが長くなりましたが、とにかくは本編の結末、それに主人公の考え、及び作者の考えについて意見を述べたいと思います。
まず結末は、富豪ロゴージンの「殺人」という予想外なものでした。これについて、「ロゴージンの脳炎が招いた末路」という理由付けがなされていますが、明確な原因についてはこちらの受け取り方に任せられているみたいです。私としてはこのように読者に委ねるような小説は非常にありがたいのです。 私の思うところでは、結局主人公ムイシュキン公爵と結婚式の約束までし、決行当日になって急に自分のもとへ逃げてきたナスターシャですが、当のロゴージン本人は「この女に振り回され続けること」に遺憾を覚えていたのではないでしょうか?結局ロゴージンが憎いと思っていたのは公爵でもアグラーヤでもなく、自分が愛していたナスターシャではなかったのか?と、私はそのような結論に至りました。 次に作者である「ドストエフスキー」が述べた、この物語の主人公ムイシュキン公爵の人間性についてです。作者は「彼のような『無条件に美しい人間』を描きたかった。今までこれに挑戦し、失敗した作家はたくさんいる。なぜなら、これは量り知れぬほど大きな仕事だからだ。美しきものは理想ではありますが、その理想は我が国のものも、文明ヨーロッパのものも、まだまだ実現されていない。この世にただ一人、無条件に美しい人間がいる。それはキリストだ――」と述べています。私はこれに対し、一理あるとは思いますが、少し考えさせられました。 というのも、無神論者である私には、キリストが「無条件に美しい人間」だとはどうしても思えないからです。たしかに、キリストについて学校で教えられたことなどでは、キリストは「無条件に美しい」と思えます。しかし、作中で公爵が言っていたように、生き返らないとわかっていれば、大衆の前で、堂々と刑にかけられたでしょうか?わかっていてもなお、刑にかけれれたというのなら、それは無条件に美しい人間です。しかし逆に、刑にかけられ、血まみれのキリストを見ても、大衆は彼が生き返ると思えたのでしょうか?この2点については、当時の傍観者の意見を聞けないのが残念ですが、これについてのある程度明確な答えが出ない限り、信者の方には申し訳ないですが、私はキリストを「無条件に美しい人間」だとは思えませんね。 話を戻して、「ならば公爵は無条件に美しい人間ではないのか?」という疑問が出てきます。公爵は熱心なキリスト教信者ですし(違う点は、前者が「カトリック」後者が「プロテスタント」ということでしょうか)。ただ、公爵は普通の人間であって普通の人間ではありません。その理由はこの物語のタイトルにもなっている「白痴」です。ただ、大筋はこの「白痴」がテーマになっていますが、私はこれについてもひとつ、提示したいことがあります。 公爵1人をさんざん「白痴だ」とはやしたてた周りの人々ですが、その人たちこそ「白痴」ではないのでしょうか?そもそも全体を通して、「白痴」という人々を作者は描いたのではないかとも感じました。これは私の勝手な思い込みかもしれませんがね。
「公爵は『無条件に美しい人間』でもあり、同時に『無条件に美しい人間』ではない」というのが私の結論です。少なくとも私はこの「白痴」を読んで、こう感じました。勝手な結論をまとめただけなんで、「あくまで私の見解」だと受け取っていただければありがたいです。
それでも「おい、お前これは絶対ちゃうやろ!!」などという感情を抑えられない場合は(笑)、メールでお願いしますね。
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