たばたけんじの日記 (田畑 賢司)
元 岡山市議会議員 田畑けんじ の日々思うこと…
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2019/02/23(土) 柔道部を止めて放送文化部へ
岡山大学法文学部法学科へ入学することの出来たわたしはどこのクラブに入るか、迷っていた。空手部からも誘いがあった。少しだけ心は揺れたものの、本命は剣道部にするか、柔道部にするか、ぐずぐずと迷っていたのであった。西田君は彼の念願の目標通り弁護士をめざしていた。豊田君はラグビー部に入部した。ボロボロの服装で通っていたわたしはかなりの変わり者と思われていたようだった。本人は質実剛健を気取ってはいたもののそうは受け取ってはくれなかったようだ。柔道部の先輩の大野さんは下宿でニワトリを飼っていたがそんな大野さんを真似ていたのであった。5月の連休が終わったころにもうそろそろ決めなくちゃと思って、柔道部へと向かった。すると、その途中で豊田君とバッタリ会った。
「おい、田畑。何処へ行くんなら?」
「おお、豊田か。ラグビーはどうなら?わしはこれから柔道部へ行くところじゃが」
「そうかあ。やっと決めたのか」
「どうしたんなら?何かあるんか?」
「いやー、あのな、放送文化部を知っとるか?」
「いや。知らん。部室もどこにあるか知らん」
「いやな、ラグビー部の隣にあるんじゃが、田畑よ。お前は放送文化部へ入らんかのー?」
「なんで?これから柔道部へ行こうと思っとる」
「放送文化はの、田畑、美人ばっかりじゃ」
「それがどうした」
「いや、そこでな、田畑が放送文化部へ入ってわしに紹介してくれんかのー。そう思うての」
それからあれこれ話しているうちに豊田の熱意にほだされてというか、負けてというか、わたしは柔道部へ行かずにその足で放送文化部の門をたたくことになったのだった。
わたしのいいかげんさはここでも発揮されたのであった。

2019/02/08(金) 岡大へ行くことに
「けんじ。ちょっと来て」
「どうしたん?」
「ちょっと話があるの」
「何?」
「まあ、ええから、そこへ座って」
「何?」
「あんた、大学どうする気?」
「う〜〜ん、県庁へ行く。そして、大学は二部(夜間)にしてもらえるように話してみるつもりだよ」
「うん。ごめんね。でも岡大へは行きたいんじゃろ?」
「うん。まあな。でもいいよ。金かかるし」
「お父さんと話し合ったんじゃけど。お父さんが定年後も仕事をしくれると言うの。行ったら」
「でも、それじゃあ、悪いじゃろ。前に”海はもうまっぴらじゃ”と言ってたが、・・・」
「でもな、あんたが大学へ行くんならもう少しがんばると言ってくれているのよ」
「う〜〜ん」
「そうしなさい。嫌じゃないんでしょ。東京や京都など他所なら行かせられんけど岡山なら何とかなるでしょう」
 と、いうことでわたしは岡大へ行くことになった。父母にはちょっぴり後ろめたさを感じつつ。

2019/02/03(日) 昭和38年の春のこと
わたしが岡山大学法学科に合格した年は昭和38(1963)年であった。第2次池田内閣が所得倍増計画を推進していた年である。池田勇人氏は広島県出身で、吉田茂・石橋湛山・岸信介内閣の下で通産大臣・大蔵大臣を歴任し、「貧乏人は麦飯を食え」などの放言で物議をかもした人物でもあったが、わたしが高校1年生の時に調印された60年安保(1960年に改定された日米新安保条約)で岸信介(現在の安倍総理の祖父)内閣退陣の後を受けてその年の7月に第1次池田内閣が誕生したのであった。安保条約改定の主要点はアメリカの日本防衛義務を明確化すること、及び日本は自助と相互援助の義務を負うこと、そして期限を10年と定めることなどであった。わたしの解釈では、日本は真に独立したのではなく、目に見えない形で星条旗の星の一つに書き加えられたという改定である。ここに60年安保の改定年である70年安保闘争が起きる要因があったのである。60年安保改定反対闘争では自民党が岸信介内閣の下で単独採決を強行。全学連のデモ隊が国会に突入。女子学生・樺美智子さんがその中で殺されるという悲劇が起きた。岸信介氏が刺傷したり、社会党の浅沼稲次郎氏が刺殺されるという社会不安が極度に緊張を高めていた時代であった。こういう世情にある国民を何とかなだめようとしたのが池田内閣の経済政策「所得倍増計画」であったと思われる。しかし、これは自民党の現在とは違う懐の深さであり、多様性を示したものではないかとわたしは思っている。そして、第2次池田内閣の下で、昭和38年には名神高速道路の一部開通やはじめての原子力発電の成功という記事が新聞紙上を賑わすこととなった。原子力発電計画はわたしの解釈では「いつでも日本は原爆が造れるぞ」という示威計画である。このような社会情勢を感知しなかったわたしにはこうした世情はテレビの中での出来事であった。今、振り返って思うに、貧乏であるがゆえに、その日その日を生活のために消費するがために社会事象、政治経済の中で今起きていることの本質を見極める目が曇らされているという現実をわれわれは自覚すべきではないかと思う。そんな昭和38年3月のある日のこと、母が話があると言った。


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