たばたけんじの日記 (田畑 賢司)
元 岡山市議会議員 田畑けんじ の日々思うこと…
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最新の絵日記ダイジェスト
2018/11/14 このままではお前は留年だぞ
2018/11/09 1人映画部に転部
2018/11/05 おなら
2018/11/04 音入れ
2018/11/03 柔道部への入部を断る

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2018/09/30(日) 嵐を呼ぶ男
石原裕次郎といえばその代表作の一つはやっぱり「嵐を呼ぶ男」であろうか。井上梅次が自作小説を西島大と共同で脚色し、監督した娯楽映画である。裕次郎がドラムを叩きながら歌う「おいらはドラマー やくざなドラマー おいらが怒れば嵐を呼ぶぜ 喧嘩代わりにドラムを叩きゃ 恋のうわさも吹っ飛ぶぜ〜 (セリフ)この野郎 かかって来い! 最初はジャブだ ホラ右パンチだ ・・・・・」と主人公の裕次郎がドラムを叩きながら歌うあのシーンが印象的な映画であった。後に結婚することになる北原三枝との共演でもある。何の因縁か、今日は台風24号が到来する嵐の日である。劇場公開は1957(昭和32)年12月28日であった。つまり昭和33年のお正月用興行作品である。この年、現在の安倍首相の祖父である岸信介氏が首相となった第一次岸信介内閣が誕生した年でもあった。60年安保闘争(女子学生・樺美智子さんが亡くなった)の3年前である。又、日本が国連安全保障理事会の非常任理事国に承認された年でもあり、前年に出発した南極観測船「宗谷」が昭和基地を建設した年でもあった。そしてまた、今日的問題となっている東海村に原子の火が灯された原子力発電所問題(核兵器保有の技術水準到達を目標とする)が出発した年でもあったのだが、われわれはそういう出来事とは無縁な存在として原子力研究と同発電所が莫大な税金の無駄遣いとなるとは露知らず娯楽映画を楽しんでいたのであった。余談ではあるが、毎年贈答をしあっている同級生の岡田君から今月北海道のジャガイモ{男爵」が送られてきたので、わたしは美味しいブドウ数種を送ったところである。残念ながらわたしがいただいたブドウの中で美味しいと思った品種を尋ねたところ贈答としては北海道に送るのは適さないというので残念ながらこの品種はあきらめたのではあるが。残念!

2018/09/29(土) 明日は明日の風が吹く
今日沖縄を襲っている遅くて強い台風24号が明日は西日本を襲うという。そして、日本列島を通過するというから心配だ。それはさておき、わたしが中学生になった頃から母が年に1,2度映画を観に行こうと言い始めた。わたしは母が27歳の時に出来た子供だからちょうど40〜43歳であっただと思われる。その当時、昭和32年〜35年頃の映画と言えば、石原裕次郎全盛であった。昭和31年に兄の石原慎太郎作品の映画化で無頼漢で遊び惚けていた裕次郎を心配した兄慎太郎が「太陽の季節」への出演を依頼し、脇役でデビュウした裕次郎は「狂った果実」で俳優として不動の地位を得たと言われている。翌32年は「幕末太陽伝」「鷲と鷹」「俺は待ってるぜ」「嵐を呼ぶ男」など、その次の年は「錆びたナイフ」「明日は明日の風が吹く」などそれ以後も数多の作品に主演する国民的大スターとなっていた。当時としては長身であった178cmのカッコイイ銀幕のタフガイでステキな彼にフアンは酔いしれた。彼が怪我と病気で苦しんだ生涯をおくったという内実などフアンは知る由もなかった。わたしたちは清輝橋にあった映画館(南座)に奥田西町から枝川沿いに大学病院の川沿いに歩いて行った。当時は大学病院の東側の川沿いには豚小屋があった。ちょうど道を迂回させるように建てられたいた。ここには戦後の混乱期の不法占拠という実態がが残されていた。一方、映画は戦後の自由を体現する文化の発展でもあった。映画はわたしを魅了したが、まだ一人で通える身分や自由は当時のわたしは許されていなかった。しかし、今でもお付き合いをさせていただいている岡田君(現在は北海道にいる同級生)の親父がこの南座の関係者であったので年に1,2度くらい内緒で見せていただいた。こうして始まった映画好きが高校生活で思わぬ人生航路を歩むことになろうとはこの時は思いもしなかったのだが・・・。

2018/09/25(火) アッという間に一年終る
時の移ろいは早いもので、アッという間に1年生が終了しました。今思えば何という馬鹿なことをしたものかと恥じ入るばかりですが、テスト用紙は一度も家に持って帰ったことが無かったのです。枝川に捨てて帰っていました。捨てられた彼らは児島湾に流れ着いたか、あるいはその途中で溶けて流れて消えてしまったに違いありません。そのくせ女の子にもてたいという夢はありました。夢というよりも野望に近かったのだと思われますが。とにかく最低の成績でした。250数人中240番前後か、その後ろでした。しかし、人生全てが悪い結果ばかりではないようです。捨てる神あれば拾う神ありというところです。成績の悪い連中はわたしを仲間だと認めてくれているようでした。先生に突っかかては先生ともめて授業を無しにしてしまうW君(卒業後自動車修理業社に勤務)、卒業後やくざや鳶や左官や大工になったY君、・・、・・、・・、などなどともまあ仲良しでした。来るものは拒まず去る者は追わずもその後のわたしの人生訓となりました。わたしが岡輝中学校で付き合いのなかった人は学年成績が20番以内の生徒たちでした。いわゆる岡輝中学校から操山高校,朝日高校という県立普通科高校への進学組の人たちでした。柔道は強くなりたいという気持ちから金光道場に通い始めました。朝は市場、そして学校、部活を終えると金光道場への毎日でした。偶に朝鮮学校の生徒たちとの喧嘩もありました。そして、旭川での渡舟漕ぎや泳ぎなどももちろんありました。こうして2年生になりましたが、同じような暮らしぶりが続いたことは言うまでもありません。

2018/09/23(日) 部活は柔道部へ
中学校では柔道部に入りました。柔道部にはまず第一に道場がありませんでした。練習畳は毎日倉庫からグランドに運び出してグランドに敷かなければなりません。第二に指導教官がいませんでした。保健体育の近藤先生(だったと思いますが?)が柔道がものすごく強くて恐い先生だと聞いていましたが、一度も来られたことがありませんでしたので恐らく指導教官ではなかったのだと思われます。もし、違っていたとすれば、生徒指導で部活どころではなかったのかも知れません。ですから練習は子供たちだけで自由にやっていました。それでも受け身や組み手など先輩から教わりました。陸上部や野球部も練習していますからこちらは狭いグランドの隅っこでした。従ってそれほど強くありませんでした。ところが、柔道部と違って陸上部と野球部は強かったので柔道部はなおのこと隅っこだったのかも知れませんが、良かったこともあります。今では役に立たない立たないと言われている指導方法の一つに「うさぎ跳び」があります。彼らはよくやらされていました。しかし、われわれには「うさぎ跳びグランド一周!」と命じる人がいなっかったのです。今思えばこれはラッキーでした。そして、雨の日はもちろん休みです。あれはいつだったか?思い出深い試合がありました。甲浦中学校の藤原君のとってもきれいな内股に関心したことがありました。今でも名前を憶えているくらいですからとっても素敵な選手でした。これに引き比べてわたしの方はと言えば、試合の時の選手の読みあげ方にショックを受けました。「次は、オカキ中学校タハタケカタシ君」と呼ぶのです。(えッ、違うじゃろ。オカキって何じゃ?煎餅やオカキを作るお菓子屋の中学校かい?違う、違う。コウキ中学校じゃ。タハタケ?違うじゃろ!タバタじゃ。カタシ?違うじゃろ!ケンジじゃ)と思うものの他に該当者はいないので当然前に出ました。この試合は勝ちましたが、次の試合では負けました。残念ながらベスト8にも残れませんでした。藤原君がどこまで勝ち上がったかは記憶にありません。彼はベスト8には残っていたのではないかと思います。柔道部に入って何が良かったかと言えば、受け身が出来るようになったことですね。これはその後の人生に於いて数度命拾いと言えば大袈裟ですが、大怪我からは救われたと思います。しかし、授業では(えッ、どうしたんだろう?)とふっと不安に思うことが一、二度ありました。いつしか先生が授業で言っていることがさっぱりわからないのです。しかし、これはあくまでもふっとなのです。真剣にではありませんでした。

2018/09/17(月) 大石くん
1年生のクラスではわたしの左隣の席はSさんというかわいらしい女性でした。今でも同窓会では彼女はどうしているかと話題になるほどです。わたしは彼女に特別の感情は抱きませんでしたが、成績が良く、かわいい彼女はみんなの憧れの的のようでした。同級生の話では(彼らは同級生のあれこれをよく知っていることにいつも感心させられますが)彼女の結婚生活はあまりよくなかったとのことで、同窓会にも出席したことがありませんから、その分だけ彼らの思いが深くなっているのかも知れません。それはともかくとして、中学校で知り合ったわたしの第一の親友は大石くんでした。彼の人間性のすばらしさはわたしには到底真似ができません。本当に優しいのです。わたしはどちらかといえばガサツですが、彼はとってもおっとりとしています。彼はお母さんと二人暮らしでした。お父さんは戦死したとのこと。しかし、暗さは微塵もありませんでした。お母さんの優しさが彼に丸ごと遺伝したのだと思えるほどです。そして、彼は人づきあいの天才だとも思えるのです。わたしに対してもわたしの心中に土足で踏み込むようなことは一切ないのですが、いつも傍にいて優しく接してくれるのです。今、思えば、わたしもこんな人になりたかったと思うのですが、もう遅いかも知れませんね。

2018/09/12(水) いよいよ中学生に
いよいよわたしは中学生になった。別に喜びとか、感慨ひとしおとかという感情は一切なかった。「ねばならない」というか、「当たり前」というか、やっと慣れた岡南小学校の延長という程度の認識であったが、後で振り返ってみるとこの岡輝中学校での3年間は特別な経験をさせていただいた学生生活であった。第一に、生涯を通じての友人が出来たことである。第二に、基礎が大切であり、その基礎の上に努力をすることが大切だいうことを学ばせていただいたことであった。聞くところによれば、岡輝中学校は火事で木造校舎が使えなくなり、数年前に鉄筋3階建てになったばかりであった。一階が一年生、二階が二年生、三階が三年生であり、建物は敷地の北側ほぼ一ぱいに建てられていた。コの字型の建物配置となっていて教室校舎の南に職員室その南が特別教室となっていた。現在もその配置は変わっていない。驚いたことは、3年生や、2年生という上級生が上から唾を吐いたり、物を投げることであった。うかうかとは窓から首を出せないのであった。また、清輝小学校から岡輝中へきた生徒たちは岡南小学校の生徒たちの2倍であった。1学年の生徒数はほぼ250数名であった。1年生の担任は国塩先生という国語を教える女先生であった。彼女がわたしに言ったことでわたしが今でも覚えているのは「あなたはバカじゃないのだから真面目に(勉強を)やんなさい」ということと、「放送部でしゃべれ」ということであった。一度であったか、数度であったか忘れたが、お知らせをしたことがある。その内容は忘れた。いずれにしても学校行事の案内ではなかったかと思われる。放送部の面々は成績の良い人たちであったから「何故俺が?」という違和感があった。中学校でも給食はなく、弁当持参であった。朝の市場での仕入れがあったせいであろうかむやみにお腹がすくのだ。弁当は一時間目が済むとさっさと平らげ、昼は家まで走って帰って食べて学校へ戻っていた。今考えるとこんなこと今では許されないことではなかったかと思う。

2018/09/09(日) 小学校もそろそろ終わりに
昭和31年、小学6年生のわたしは朝は市場へ、放課後は卵の仕入れに、そして後の時間、及び土日、祝日、夏・冬・春の休みは遊び暮らしていた。世の中は敗戦から11年経ち、随分落ち着いてきていたのだと思う。この年、日ソ国交回復、日本の国際連合加入、南極観測船宗谷の出発などがおこなわれている。わたしはラジオも満足に聞いていなかったので何にも知らなかった。テレビを見たのは小学校5年生の時に、妹尾の電気販売店の店先で相撲を見たのが初めてであった。次は東京の旅館で力道山を観た。レスリングの試合であり、空手チョップは凄いと思った。父に会うために東京に行った時のことである。3度目にテレビで相撲を観たのは岡山市の天満屋のバスターミナルであった。母のお使いで天満屋近くへ行った時のことである。そして4度目は奥田の近所の家でテレビを買ったと言うので観せていただいた。それが皇太子(現在の平成天皇)と美智子妃の結婚式であった。途中で妨害者が入ったことはよく覚えている。しかし、何故?とかについては誰も教えてはくれなかった。それはともかくとして、テレビを購入できた家は恐らくこの年に起きた神武景気のおかげであろう。朝鮮戦争の特需から、5年目である。そして、この年、原子力委員会が発足するとともに、東海村に原子力研究所が設置されている。この背景には日本も将来いつでも原爆を製造するぞとの決意が隠されていた。アメリカに対しては「面従腹背」しつつ、「再び栄光の日本を」との野望を心の奥底に燃やしていたのであろう。何故、マッカーサーが天皇の戦争責任を追及せず、憲法に「天皇を象徴」として残したのかはわからない。だが、彼が天皇を生かして日本国民を懐柔しようとしたのであろうことは確かなことだ。このような時代にわたしは世の中のことは何も知らないで中学校に入学しようとしていたのだが、翌年、中学校へ入学した年に現在の安倍首相が心酔する彼の祖父である岸信介が首相となった。彼は戦犯である。戦前の政府の商工大臣であったが、朝鮮戦争で彼は釈放された。いわば戦前の天皇制軍事政権の怪物が檻から解放されたのではないかと思われる。これも歴史の皮肉であろうか!?

2018/09/07(金) アチャー、顔が青いがな
確か、あれは後楽園のところで泳いだ帰りであったと思われる。清輝橋まで帰った時に、大学病院の裏に廻ってみようと言うことになった。大学病院のプールは裏手、つまり南側の塀の中にあった。恐らく今考えると岡大医学部のプールではなかったかと思われる。われわれは誰もいない時に偶に泳ぐことができた。このプールには飛び込み台も備え付けられていた。われわれの学校には小学校も、中学校もプールなどなかった時代である。プールで泳ぐというわれわれにとっては得難い喜びであった。その日は晴天であったので、かなりの暑さであったろう。鼻の頭に汗をかきながら自転車をこいでいたに違いない。「おーい、今日はええぞ」と声がする。大学病院の金網の塀など難なく乗り越えられる。われわれは誰もいないプールで思う存分泳ぎを楽しんだ頃、「ケンチャン、あそこから飛び込めるか?」と聞く。下から見上げると、まあ、何とも高い。競技用の飛び込み台であるからそれはそれは高かったのだ。ここでまたわたしの悪い癖が頭を持ち上げた。「おー、大丈夫じゃ。あんなもの。大丈夫じゃ」「ほんならやってみい」「おー」という具合で飛び込み台に上った。フワフワしたのは飛び込み台ではなく、気持ちの方ではなかったかと思われる。台の端まで行き、「おー、行くぞ。ええか」と声をかける。みんなに飛び込むぞということを知らせるというよりは自分を奮い立たせていたのかも知れない。下から「おー、いいぜ」と声がする。そこでバウンドをつけて飛び込んだのだ。すーーーッと落ちてゆく。何とも長い。(えッ、どうしたんだろう?)と顔を上げた時だった。何という音であろうか。バチッという音がした。もうしばらく待っていれば避けられたはずの顔面打ちであった。痛いッと思ったがその時は既に遅しである。「ケンちゃん!鼻血が出ようるがあ」との声を後ろに泳ぎ、プールを上がった。そして、仰向けに寝た。(空ってなんて青いんだ)と思った時、友達が「ケンチャン、顔が真っ青じゃ。大丈夫か?」と聞いた。「あちゃー、顔も青いのだ」と思ったが、わたしは「うん、大丈夫じゃ」と無理矢理微笑んで答えた。恐らく顔は引きつっていたに違いない。何ともカッコウの悪い飛び込み失敗事件であった。

2018/09/06(木) お=い、ここから飛び込めるか?
次は、岡山県庁より北の後楽園と岡山城の間の旭川であった。遠泳がおこなわれたり、寒中水泳がおこなわれる場所である。後楽園側ではボートが置かれていて、茶屋もあるあの場所であり、後楽園の入口から出石町に至る橋の辺りまでであるが、ここが何とも面白い場所であった。後楽園側の石積み護岸には前足の長いテンゴエビがたくさんいた。十数匹取れると陸に上がっては焚火をして焼いて食べるのだ。これがまた何とも美味いのだ。妹尾ではトーチカをとらえてバケツで煮て食べた。これも大変美味かったが、母にはこっぴどく叱られた。「ジストマにやられたらどうするんじゃ。あほー」と言いながら、平手でピシャピシャ叩かれた。おかげで尻が腫れあがった。だが、ここは母の目は届かない。子どもという者は親の目の届かないところで何をしでかすか、わかったもんではない。そうすると自己規範が備わっているかどうかが事故や犯罪を引き起こすかどうかの分岐点となることもあるに違いない。こうして遊んでいる時に橋の上から呼ぶ者がいる。泳いで橋の下に行くと「おーい、ここから飛び込めるか?」と言う。わたしは「おう」と答えた。一緒に遊びに来ていた連れが「ケンちゃん、止めとけ。危ねえぜ」と止めるが、一度「おう」と返事をしたのだから「止めるわけにもいかない」。急ぎ泳いで岸に上がり、裸足で歩いて行くと、声をかけた奴は反対側の岸にいて、川に入ろうとしていた。橋の下から本当にやるかどうかを確かめるつもりに違いない。橋の欄干に立って気がついた。(えっ!高い)(頭打つぞ。これはどうしよう?)と頭の中が困惑している。下では「早く来いよ」と手を振っている。(え〜〜い、仕方が無い)思い切って足から飛び込むことにした。そして、思い切りザンブと飛び込んだ。川底の石が足裏に冷たかった。その石を蹴って水面に出た頃にはそいつはまた岸に向かって泳いでいた。わたしは(どこの中学なんだろう?操山か!?)と思った。こういう他人の挑発にすぐ乗るバカは死ななきゃ治らない。飛び込みでのヤバイお話はまた次の機会に。

2018/09/04(火) 天狗になったような
渡し場で泳いでいると舟を漕ぎたくなった。赤銅色に顔が焼けた叔父さんが体をしならせながらゆっくりと舟を漕ぐのだが、見ていてカッコええなあと思った。そこで叔父さんに声をかけた。舟と並んで泳ぎかえって次の客待ちの時間だった。「おっちゃん。舟を漕がしてもらえんかなあ!?」叔父さんは怪訝そうな顔をして、めんどくさそうに「おめえは年はなんぼや?」と聞く。そこでわたしは「小6」と言った。叔父さんは「そうか。小6か。もうちっと小せえかと思うたが、そうかあ、6年生か。まあそれなら教えてやってもええが・・・。おめえやりきる根性あるんかあ?」と聞く。「おお。あるある」叔父さんは「口じゃあみな偉そうにほえるがのお・・・」と言いつつ、半信半疑の様子であった。「おっちゃん、わしゃ、大丈夫じゃ」「そうかあ、まあ、後2,3回往復するから待てるか?」と聞く。「うん、待っとる」こういうことで和船漕ぎを教えてもらうことになった。そして、お客がいなくなった時、叔父さんが手招きをするので走って行ったところ舟に乗れと言う。そして、叔父さんはわたしを乗せて舟を出した。そして言う。「やってみい」そうして、わたしが漕げるように艪の高さを低く調節してくれた。「わしがやるのを見取ったじゃろうが、押して、引くんじゃ。ええのお。行け!」その間にも舟はどんどん流されてゆく。艪を押すとヘソが外れて川へどっつぼ〜んと放り出された。叔父さんは「オイ、早う上がってけえ}と知らん顔だ。舟はどんどん流されてゆく。泳いで追いついて舟に上がると「早うせんと福島まで行くど」と涼しい顔だ。ヘソが外れるのは押して引く時の力のバランスが大切だとわかった。4,5回は川に落ちただろうか。コツが飲み込めた頃、「戻るぜ」の声。「えッつ、わしゃーへとへとじゃあ」と言うと「根性あるかと聞いたらあると言うたろうが。漕げ]と言う。下流へ流された分だけ流れに逆らって漕ぐのだから大変だったが、なんとか元の岸まで戻ることが出来た。すると、叔父さんが「おめえの名前は?明日から暇な時は来てええぞ」と「ああ、はいケンジじゃ。ほんま、ありがとう」と言って帰った。次の日から行くと漕がしてもらえた。すると、東高校へ通うお姉ちゃんが自転車を乗せて渡る時のことだった。「ぼく!ぼくはかわいいのにすごいなあ。舟が漕げるんじゃ。偉いなあ」と誉めてくれた。それからは鼻高々で、天狗になったような気持ちになりお姉ちゃんたちが乗る時間には船着き場に行くようになった。人間,ほめられるとさらに上手くなれるのかも。

9月絵日記の続き


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