たばたけんじの日記 (田畑 賢司)
元 岡山市議会議員 田畑けんじ の日々思うこと…
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最新の絵日記ダイジェスト
2018/09/17 大石くん
2018/09/12 いよいよ中学生に
2018/09/09 小学校もそろそろ終わりに
2018/09/07 アチャー、顔が青いがな
2018/09/06 お=い、ここから飛び込めるか?

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2018/09/17(月) 大石くん
1年生のクラスではわたしの左隣の席はSさんというかわいらしい女性でした。今でも同窓会では彼女はどうしているかと話題になるほどです。わたしは彼女に特別の感情は抱きませんでしたが、成績が良く、かわいい彼女はみんなの憧れの的のようでした。同級生の話では(彼らは同級生のあれこれをよく知っていることにいつも感心させられますが)彼女の結婚生活はあまりよくなかったとのことで、同窓会にも出席したことがありませんから、その分だけ彼らの思いが深くなっているのかも知れません。それはともかくとして、中学校で知り合ったわたしの第一の親友は大石くんでした。彼の人間性のすばらしさはわたしには到底真似ができません。本当に優しいのです。わたしはどちらかといえばガサツですが、彼はとってもおっとりとしています。彼はお母さんと二人暮らしでした。お父さんは戦死したとのこと。しかし、暗さは微塵もありませんでした。お母さんの優しさが彼に丸ごと遺伝したのだと思えるほどです。そして、彼は人づきあいの天才だとも思えるのです。わたしに対してもわたしの心中に土足で踏み込むようなことは一切ないのですが、いつも傍にいて優しく接してくれるのです。今、思えば、わたしもこんな人になりたかったと思うのですが、もう遅いかも知れませんね。

2018/09/12(水) いよいよ中学生に
いよいよわたしは中学生になった。別に喜びとか、感慨ひとしおとかという感情は一切なかった。「ねばならない」というか、「当たり前」というか、やっと慣れた岡南小学校の延長という程度の認識であったが、後で振り返ってみるとこの岡輝中学校での3年間は特別な経験をさせていただいた学生生活であった。第一に、生涯を通じての友人が出来たことである。第二に、基礎が大切であり、その基礎の上に努力をすることが大切だいうことを学ばせていただいたことであった。聞くところによれば、岡輝中学校は火事で木造校舎が使えなくなり、数年前に鉄筋3階建てになったばかりであった。一階が一年生、二階が二年生、三階が三年生であり、建物は敷地の北側ほぼ一ぱいに建てられていた。コの字型の建物配置となっていて教室校舎の南に職員室その南が特別教室となっていた。現在もその配置は変わっていない。驚いたことは、3年生や、2年生という上級生が上から唾を吐いたり、物を投げることであった。うかうかとは窓から首を出せないのであった。また、清輝小学校から岡輝中へきた生徒たちは岡南小学校の生徒たちの2倍であった。1学年の生徒数はほぼ250数名であった。1年生の担任は国塩先生という国語を教える女先生であった。彼女がわたしに言ったことでわたしが今でも覚えているのは「あなたはバカじゃないのだから真面目に(勉強を)やんなさい」ということと、「放送部でしゃべれ」ということであった。一度であったか、数度であったか忘れたが、お知らせをしたことがある。その内容は忘れた。いずれにしても学校行事の案内ではなかったかと思われる。放送部の面々は成績の良い人たちであったから「何故俺が?」という違和感があった。中学校でも給食はなく、弁当持参であった。朝の市場での仕入れがあったせいであろうかむやみにお腹がすくのだ。弁当は一時間目が済むとさっさと平らげ、昼は家まで走って帰って食べて学校へ戻っていた。今考えるとこんなこと今では許されないことではなかったかと思う。

2018/09/09(日) 小学校もそろそろ終わりに
昭和31年、小学6年生のわたしは朝は市場へ、放課後は卵の仕入れに、そして後の時間、及び土日、祝日、夏・冬・春の休みは遊び暮らしていた。世の中は敗戦から11年経ち、随分落ち着いてきていたのだと思う。この年、日ソ国交回復、日本の国際連合加入、南極観測船宗谷の出発などがおこなわれている。わたしはラジオも満足に聞いていなかったので何にも知らなかった。テレビを見たのは小学校5年生の時に、妹尾の電気販売店の店先で相撲を見たのが初めてであった。次は東京の旅館で力道山を観た。レスリングの試合であり、空手チョップは凄いと思った。父に会うために東京に行った時のことである。3度目にテレビで相撲を観たのは岡山市の天満屋のバスターミナルであった。母のお使いで天満屋近くへ行った時のことである。そして4度目は奥田の近所の家でテレビを買ったと言うので観せていただいた。それが皇太子(現在の平成天皇)と美智子妃の結婚式であった。途中で妨害者が入ったことはよく覚えている。しかし、何故?とかについては誰も教えてはくれなかった。それはともかくとして、テレビを購入できた家は恐らくこの年に起きた神武景気のおかげであろう。朝鮮戦争の特需から、5年目である。そして、この年、原子力委員会が発足するとともに、東海村に原子力研究所が設置されている。この背景には日本も将来いつでも原爆を製造するぞとの決意が隠されていた。アメリカに対しては「面従腹背」しつつ、「再び栄光の日本を」との野望を心の奥底に燃やしていたのであろう。何故、マッカーサーが天皇の戦争責任を追及せず、憲法に「天皇を象徴」として残したのかはわからない。だが、彼が天皇を生かして日本国民を懐柔しようとしたのであろうことは確かなことだ。このような時代にわたしは世の中のことは何も知らないで中学校に入学しようとしていたのだが、翌年、中学校へ入学した年に現在の安倍首相が心酔する彼の祖父である岸信介が首相となった。彼は戦犯である。戦前の政府の商工大臣であったが、朝鮮戦争で彼は釈放された。いわば戦前の天皇制軍事政権の怪物が檻から解放されたのではないかと思われる。これも歴史の皮肉であろうか!?

2018/09/07(金) アチャー、顔が青いがな
確か、あれは後楽園のところで泳いだ帰りであったと思われる。清輝橋まで帰った時に、大学病院の裏に廻ってみようと言うことになった。大学病院のプールは裏手、つまり南側の塀の中にあった。恐らく今考えると岡大医学部のプールではなかったかと思われる。われわれは誰もいない時に偶に泳ぐことができた。このプールには飛び込み台も備え付けられていた。われわれの学校には小学校も、中学校もプールなどなかった時代である。プールで泳ぐというわれわれにとっては得難い喜びであった。その日は晴天であったので、かなりの暑さであったろう。鼻の頭に汗をかきながら自転車をこいでいたに違いない。「おーい、今日はええぞ」と声がする。大学病院の金網の塀など難なく乗り越えられる。われわれは誰もいないプールで思う存分泳ぎを楽しんだ頃、「ケンチャン、あそこから飛び込めるか?」と聞く。下から見上げると、まあ、何とも高い。競技用の飛び込み台であるからそれはそれは高かったのだ。ここでまたわたしの悪い癖が頭を持ち上げた。「おー、大丈夫じゃ。あんなもの。大丈夫じゃ」「ほんならやってみい」「おー」という具合で飛び込み台に上った。フワフワしたのは飛び込み台ではなく、気持ちの方ではなかったかと思われる。台の端まで行き、「おー、行くぞ。ええか」と声をかける。みんなに飛び込むぞということを知らせるというよりは自分を奮い立たせていたのかも知れない。下から「おー、いいぜ」と声がする。そこでバウンドをつけて飛び込んだのだ。すーーーッと落ちてゆく。何とも長い。(えッ、どうしたんだろう?)と顔を上げた時だった。何という音であろうか。バチッという音がした。もうしばらく待っていれば避けられたはずの顔面打ちであった。痛いッと思ったがその時は既に遅しである。「ケンちゃん!鼻血が出ようるがあ」との声を後ろに泳ぎ、プールを上がった。そして、仰向けに寝た。(空ってなんて青いんだ)と思った時、友達が「ケンチャン、顔が真っ青じゃ。大丈夫か?」と聞いた。「あちゃー、顔も青いのだ」と思ったが、わたしは「うん、大丈夫じゃ」と無理矢理微笑んで答えた。恐らく顔は引きつっていたに違いない。何ともカッコウの悪い飛び込み失敗事件であった。

2018/09/06(木) お=い、ここから飛び込めるか?
次は、岡山県庁より北の後楽園と岡山城の間の旭川であった。遠泳がおこなわれたり、寒中水泳がおこなわれる場所である。後楽園側ではボートが置かれていて、茶屋もあるあの場所であり、後楽園の入口から出石町に至る橋の辺りまでであるが、ここが何とも面白い場所であった。後楽園側の石積み護岸には前足の長いテンゴエビがたくさんいた。十数匹取れると陸に上がっては焚火をして焼いて食べるのだ。これがまた何とも美味いのだ。妹尾ではトーチカをとらえてバケツで煮て食べた。これも大変美味かったが、母にはこっぴどく叱られた。「ジストマにやられたらどうするんじゃ。あほー」と言いながら、平手でピシャピシャ叩かれた。おかげで尻が腫れあがった。だが、ここは母の目は届かない。子どもという者は親の目の届かないところで何をしでかすか、わかったもんではない。そうすると自己規範が備わっているかどうかが事故や犯罪を引き起こすかどうかの分岐点となることもあるに違いない。こうして遊んでいる時に橋の上から呼ぶ者がいる。泳いで橋の下に行くと「おーい、ここから飛び込めるか?」と言う。わたしは「おう」と答えた。一緒に遊びに来ていた連れが「ケンちゃん、止めとけ。危ねえぜ」と止めるが、一度「おう」と返事をしたのだから「止めるわけにもいかない」。急ぎ泳いで岸に上がり、裸足で歩いて行くと、声をかけた奴は反対側の岸にいて、川に入ろうとしていた。橋の下から本当にやるかどうかを確かめるつもりに違いない。橋の欄干に立って気がついた。(えっ!高い)(頭打つぞ。これはどうしよう?)と頭の中が困惑している。下では「早く来いよ」と手を振っている。(え〜〜い、仕方が無い)思い切って足から飛び込むことにした。そして、思い切りザンブと飛び込んだ。川底の石が足裏に冷たかった。その石を蹴って水面に出た頃にはそいつはまた岸に向かって泳いでいた。わたしは(どこの中学なんだろう?操山か!?)と思った。こういう他人の挑発にすぐ乗るバカは死ななきゃ治らない。飛び込みでのヤバイお話はまた次の機会に。

2018/09/04(火) 天狗になったような
渡し場で泳いでいると舟を漕ぎたくなった。赤銅色に顔が焼けた叔父さんが体をしならせながらゆっくりと舟を漕ぐのだが、見ていてカッコええなあと思った。そこで叔父さんに声をかけた。舟と並んで泳ぎかえって次の客待ちの時間だった。「おっちゃん。舟を漕がしてもらえんかなあ!?」叔父さんは怪訝そうな顔をして、めんどくさそうに「おめえは年はなんぼや?」と聞く。そこでわたしは「小6」と言った。叔父さんは「そうか。小6か。もうちっと小せえかと思うたが、そうかあ、6年生か。まあそれなら教えてやってもええが・・・。おめえやりきる根性あるんかあ?」と聞く。「おお。あるある」叔父さんは「口じゃあみな偉そうにほえるがのお・・・」と言いつつ、半信半疑の様子であった。「おっちゃん、わしゃ、大丈夫じゃ」「そうかあ、まあ、後2,3回往復するから待てるか?」と聞く。「うん、待っとる」こういうことで和船漕ぎを教えてもらうことになった。そして、お客がいなくなった時、叔父さんが手招きをするので走って行ったところ舟に乗れと言う。そして、叔父さんはわたしを乗せて舟を出した。そして言う。「やってみい」そうして、わたしが漕げるように艪の高さを低く調節してくれた。「わしがやるのを見取ったじゃろうが、押して、引くんじゃ。ええのお。行け!」その間にも舟はどんどん流されてゆく。艪を押すとヘソが外れて川へどっつぼ〜んと放り出された。叔父さんは「オイ、早う上がってけえ}と知らん顔だ。舟はどんどん流されてゆく。泳いで追いついて舟に上がると「早うせんと福島まで行くど」と涼しい顔だ。ヘソが外れるのは押して引く時の力のバランスが大切だとわかった。4,5回は川に落ちただろうか。コツが飲み込めた頃、「戻るぜ」の声。「えッつ、わしゃーへとへとじゃあ」と言うと「根性あるかと聞いたらあると言うたろうが。漕げ]と言う。下流へ流された分だけ流れに逆らって漕ぐのだから大変だったが、なんとか元の岸まで戻ることが出来た。すると、叔父さんが「おめえの名前は?明日から暇な時は来てええぞ」と「ああ、はいケンジじゃ。ほんま、ありがとう」と言って帰った。次の日から行くと漕がしてもらえた。すると、東高校へ通うお姉ちゃんが自転車を乗せて渡る時のことだった。「ぼく!ぼくはかわいいのにすごいなあ。舟が漕げるんじゃ。偉いなあ」と誉めてくれた。それからは鼻高々で、天狗になったような気持ちになりお姉ちゃんたちが乗る時間には船着き場に行くようになった。人間,ほめられるとさらに上手くなれるのかも。

2018/09/03(月) 旭川で泳いでいた
さてわたしはどこで泳いでいたのか?妹尾では笹が瀬川の支流や用水及び舟溜まりであった。シジミ取りや魚釣りもこれらの川でやっていた。時には藻で堰を作って水を掻い出し魚を取った。石垣の間のドンコヤナマズも取ったし、フナなどもヤスで突いて取った。岡山ではもっぱら旭川であった。河口の福島では住吉さんのところであった。当時、飛び込み台もあった。ここでは2年ほどで泳ぎが禁止された。誰か知らない人ではあるが、飛び込み台から飛び込んで首の骨を折ったからだと聞いた。次は七日市、旭本町近辺である。対岸の平井の岸まで行っては帰るという競争である。その頃は京橋に船着き場があった。数多くのポンポン船が行き交う中をである。夏休みになってしばらくすると中学校の先輩たちがスイカを取ろうと言い始めた。牛窓からスイかを満載した船が上がってくる。恐そうな叔父さんが大きな竿を持って立っている。4,5名が組んでスイカを取ろうというのだ。2人ほどが叩かれ役でおとりになる。叔父さんがその2人に気を取られているうちに後の2,3人が船に上がってスイカを蹴落とすのだが、この船から蹴上がる時の足の力と腹の力が半端じゃなく必要になる。もちろん腕の力も必要だ。うかうかすると船は流れの逆に前進しているから足を始め体が船底に引き込まれて持って行かれる。スクリュウに巻き込まれると大変なことになる。こうしたことが2,3度やると分かってきた。こうして船から蹴落としたスイカは陸に上がってみんなで割って食べる。余るほどには蹴落とすことはなかった。ある日、同級生の兄がスクリュウに巻かれて亡くなった。その日、ちょうどわたしは家の用事で行かなかったが、・・・その訃報を聞いて胸が痛かった。以後、ここでの遊泳も禁止となった。次は清輝橋から網浜の間の泳いでの往復であった。網浜の岸は獣骨が散乱していた。朝鮮学校が建設される前の東古松を経験しているわたしは別に驚きはしなかったが、そうかと言ってあまり気持ちのいい物でもない。そのうち、京橋やその近辺でも泳ぐようになった。友だちは「おー、風船がある」と喜んでいたが、大人になってから思い出すと、これはあまりいい思い出ではない。いい思い出はといえば、当時は清輝橋には橋がなかったので渡し船であった。これはわたしにとっていい思い出である。

2018/09/02(日) 運動不足をどうするか?
今年はどうも体の節目の年のようだ。左側の足と腰の蝶つがいの辺りが痛い!左脚のふくらはぎの前あたりが痛い。激痛である。今までに感じたことのなかった体の異変である。草刈りや田んぼの草取りなどをはじめとする農作業が出来ない。異常な暑さと相まって作業をズルした。そこで今まで誘われても行かなかった「ゆる体操」にゆくことにした。こうして7月及び8月は何も出来ぬまま過ぎてしまった。今年は2度健診を受けた。最初の健診で高血圧と言われた。”190を超えている”と。2度目の健診で”心臓不整脈”だと。そこで以前所持していた血圧計を探すも{無い!}。「どうしよう?」。ところが新しく血圧計をゲットすることができた。まさに運良く。以来、半年が経過した。ここ数カ月の血圧はおおむね高くても140以下である。なぜかと言えば、まず、食事の改善計画を立てた。減塩と減肉食。野菜を多く。ご飯は朝と昼のみ。夜はお酒(減量・低量・定量)とお菜のみ。おかげで体重は57kgを上下すること1kgの範囲となった。昨年比マイナス8kgだ。ところが、心臓の不整脈は治らない。さて、どうしたものか?寝不足は幾分かはある。夜中の小水が1〜3度。だが、74歳にもなれば致し方なしか、とも思える。何故酒を止めないのだ!?う〜〜ん、でもなあ・・・。適量、低量ならいいんじゃない。そうそう、運動不足は決定的だな。仕事中の階段の上り下りや歩くことが出来なくなったからだ。これをどうすべきか?何をどうすべきか?そして、問う。「けんじよ!思案中が少し長すぎはしないか!?」このように、自分を叱ってみるものの妙案無し。水泳はどうか?う〜ん、費用と移動時間と・・・がなあ・・・・・・という具合に。結論がだせない。過度の飲酒は改善したのだから後は「運動」だけなのだが・・・。そうだ!水泳だ、とは思うものの・・・・。そうそう、ぼくの子供の頃には学校にプールはなかった。もっぱら川で、そしてたまに海で泳ぐしか術がなかったのだ。次回は「どこでどのように泳いだか」を思い出してみよう。まずはそこから考えてみよう。


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