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2018/08/25(土)
いいかげんな人生の始まり
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転居した奥田の住まいはバラックに近かったが、不満はなかった。住めるところがあるだけ有難く思えた。風呂は敷地の北側に木造の小屋が建てられ、五右衛門風呂が据えられた。その隣が仮設のトイレであった。湯を沸かすのは妹尾と同じく薪であったが、水くみはしなくてよかった。水道が敷設されていたのだ。これでわたしは毎日の水汲みから解放されたのだった。その上、わが家の前のご夫婦が薪炭を扱っていたので薪も採りに行かなくてよかった。但し、労力の代わりにお金が要るのだということがわかった。そこで、新しい仕事が間もなく始まった。母はなんと八百屋を始めたのだった。バラックを店に改造し、その裏に家を建てたのであった。檜の香りのする新居であった。だが、これらの家の建築費(借金)を支払わねばならない。こうして、わたしは毎朝4時半起きの青物市場5時半着という八百屋の仕入れが日課となった。青物市場は最初表町の鐘撞き堂の傍にあったが、後に青江に移設された。それからかなりの時を経て現在の築港に移設されたのだが、仲買の叔父さんや叔母さんたちは何かと親切にしてくれた。この親切は本当に有難かった。わたしは毎朝自転車の荷台に馬関籠を結わえ、その中に仕入れた物を積み込んで帰って母にわたすのだが、市場の人たちの親切がわたしの毎日を支えてくれていた。しかし、わたしの生涯で悔むべき点があるとすれば、毎日の仕事に追われて、わたしはわたしの生涯の目標を定めることがなかったということだ。残念ながらわたしの処世訓は「人には沿うてみよ。馬には乗ってみよ」という悪く言えばその場しのぎであり、よく言えばたおやかにその場を乗り越えようということであった。今思えば、職業にしても、医者になろうとか、弁護士になろうとかという目標は一切持たないで「いいかげんな人生」を歩んできたことは悔やまれる。とは言うものの「では、これまでのいいかげんな人生を否定」しているのか、と言われれば、そうでもない。これはこれで楽しく面白い人生であったやに思える。出鱈目でいいかげんな人生ではあったが「ネバナラナイ」という心の負担の少ない人生であったからであろう。
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