たばたけんじの日記 (田畑 賢司)
元 岡山市議会議員 田畑けんじ の日々思うこと…
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2018/04/04(水) 流れる血が綺麗だった
自衛隊はどうするのかって?自衛隊は地震や台風などの被害救助に備えて維持します。まさか?って時にも備えて。それじゃ防衛費がもったいないって。?いいじゃないの。米軍基地の負担(日本国民の税金で負担してんだぜ)と思いやり予算は要らなくなるから費用は随分安くなるよ。そこから先は国民の意思で決めて行けばいいと思います。さて二つ目は足を怪我した時のことです。妹尾保育園で1年保育を受けることになりました。保育園には行くのですが、なんとまあ、お昼寝の時間の嫌なことといったら。まったくお昼寝が出来ないのです。みんな寝ているのか、それとも寝た振りをしているのか。よくわからないのですが、とても静かになります。どんなに努力しても眠れません。ある日のことです。しばらく努力を続けていましたが、どうにも我慢できなくなりました。先生がいなくなった隙を狙って窓から川に飛び込みました。「アチャー」左足裏がキアッとしました。すると、水の中から赤い血がす〜〜〜と流れ出て、筋を引いてゆらゆら〜と流れていきます。わたしは少しいかれているのかも知れません。「なんて綺麗なんだろう」とその血の流れに見入っていました。本当に綺麗だったのです。足裏を怪我した原因は割れたビンでした。綺麗だったということと割れたビン以外のことは何も思い出せません。

2018/04/03(火) 真っ白なウサギ
わたしはわたしをいつから自覚したのであろう?思い返してみると小さい頃は記憶にないところの方が多いのですが、小学生になる前の記憶は三つです。一つは家から遠い方の畑で母が畑仕事をしていました。わたしは木に繋がれていました。少しばかり自由に動けるように縄で結わえられ木に繋がれていたのです。まるで犬のようです。この様子を想い出すといつもアメリカと日本のようではないかと思うのです。少しばかりの自由を得て、這いまわっているが、いつでもアメリカが縄を引っ張ると手繰り寄せられ、鞭で打たれて、言うことを聞かされる関係性と同じではないか、と。トランプ大統領が日本人や安倍総理のことを「日本の連中は薄ら笑いを浮かべて近寄ってきて利益を得てきたがそんな関係はもう終わりだ」と言いました。ということは、「お前の国はお前で護れ。出来ないのなら金と命を差し出せ。自衛隊はアメリカのために戦争させろ。取引もお前だけが儲けるのは許さんぞ」ということです。「ならば!」とわたしは思うのです。「アメリカ軍の基地は撤去しろよ。日本はどこの国とも戦争はしない国として生き抜いて見せる」と。「そんなバカなことが出来るものか}とお思いの方も多いかと思いますが、それでは「あなたはまたあの誰も責任を取らない悲惨な戦争をするのですか」とわたしは反論したいと思います。フィリピンでさえ基地撤去をさせたのですから、できないはずはありません。しかし、母に対しても誰に対しても木に繋がれた自分のことを口にしたことはありません。今、初めて文字にしました。こうして、少しばかり自由の利く縄で木に繋がれたわたしが見たものは「ウサギ」でした。真っ白なウサギが鍬を持つ母の後ろにひょこっと出てきたのです。ピンと立った耳に赤い目。一瞬、キョロっと見回します。わたしが追いかけようとしますが、縄に縛られています。その動きを察したウサギはたちまちいなくなりました。

2018/04/02(月) 妹尾の家
妹尾駅を真っすぐ西に向かって突き当りを右に折れすぐ又西に真っすぐに進むと又路地が折れ曲がります。その路地をもう二つほど折れ曲がったところにわたしたちの家がありました。その妹尾の家は狭い昔の路地から西に向くと左が畑でした。真っすぐ西に進むと石の階段があります。右手は隣の屋敷の土塀でした。イグサ製品やわら製品を下請けに作らせて各地に卸をする仕事をしていたようですが、畑の前にも工場がありました。いわゆる戦後の成金の一人だったに違いありません。女中さんが3人もいました。ある時のことでしたが、真夜中に警察が踏み込み大騒ぎになったことがありました。「博打」がおこなわれていたとのことです。左の畑の先は2軒長屋がありました。1年大きい先輩が住んでいましたが、この先輩のお母さんによく灸(やいと)を据えられました。石段を上がると2mほどの通路が左に伸びており、突き当りの山際には柿の木がありました。その手前には鳥小屋と犬小屋がありました。鳥や犬の世話はわたしの担当でした。ここは縁側でもありました。家の玄関を入ると昔ながらの農家の造りになっていました。右手と左手に8畳の部屋が一つづつ、真っすぐに行くと左手に食事をする小さな部屋、さらに進むと右手に流しや調理台など、左手に大きなかまどが二つとお風呂の焚口がありました。そこには裏口があり、裏口を右手に行くと階段があり、右手に階段を降りると大きな井戸があります。つまりわたしはこの階段を上り下りして風呂の水くみをしなければなりませんでした。この階段を上ると広場があり、神様やたくさんの木が植えられていました。左の8畳を抜けると納戸があり、母の父、わたしのおじいさんの居所がありました。その前を通り抜けると、小庭があり、左手が便所になっていました。手水鉢のある所を抜けるとお風呂でした。五右衛門風呂という鉄のお釜です。風呂の水くみ、風呂沸かし、飯炊きはわたしの役割でした。この家でわたしは小学校5年生まで暮らしたのでした。

2018/04/01(日) 妹尾の実家へ
妹尾という町は「妹尾千軒皆法華」と言われるように町民のほとんどが法華宗という町でした。冬には団扇太鼓を叩きながら「南無妙法蓮華経」と唱えながらお坊さんが歩くという寒行がおこなわれていました。この「妹尾」という町名は平家の武将であった妹尾太郎兼安が語源となっています。彼は当時、現在の総社市の高梁川にある現在の合同堰から妹尾までの12ケ郷の用水を整備し、水田耕作が可能な肥沃な土地にしました。そして、また、明治、大正、昭和の時代には興徐、藤田などの干拓事業の基地となった町でもありました。母の祖父、橋本は明治天皇、皇居を護衛する皇軍の兵士として勤務し、退役後、干拓事業を手掛けた藤田伝三郎氏の現地の取りまとめ役をしていたようです。現在の役職で言えば妹尾支店長というところでしょうか。大きな屋敷の前は秋には新米をはじめとする収穫物が山と積まれ、妹尾駅から貨物で輸送されていたようです。この大きな屋敷はわたしの記憶によればわたしが小学校3年生のころは映画館になっていました。それ以前は芝居小屋だったようです。わたしの祖祖父(母の祖父)橋本の死去後、母の父である和田が家を零落させたとはいえ、住居と畑は残っていました。映画館から10数m離れたところにあった住居は西側が裏山、前は2mほどの高さの石垣の下に畑がありました。また、10分ほど裏山を歩いて越えたところにまた別の畑がありました。母の兄弟姉妹は11人半だったといいます。男は3人のうち2人が戦死。女は3人が病死、1人は生まれてすぐに亡くなったので半だと母は言うのです。残った者は姉1人と弟1人、妹3人と母でした。姉と妹1人は嫁いでおり、弟1人は大工の見習いとして家を出ていたので、家には母の父と妹2人が残っていました。母の話しによれば、戦争中に母や妹や息子(わたしの兄)がひと月ごとに同じ窯で焼かれたのでとても辛かったと言っていました。このような妹尾の家にわたしたちはやってきたのでした。


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