たばたけんじの日記 (田畑 賢司)
元 岡山市議会議員 田畑けんじ の日々思うこと…
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2018/04/13(金) ウナギが食いたいと祖父さん
寒い冬の日のことです。お祖父さんがウナギが食べたいと言うのです。「じゃあ、明日、行ってくるわ」とわたしは返事しました。ウナギ釣りには「ナガセ」という道具を作って使っていました。小学校1年生の頃にウナギ漁をやっているおじさんにせがんでせがんで教えてもらいました。材料は竹の串に、タコ糸と釣り針です。それとは別に穴の開いた鉄の輪っかにタコ糸をくくりつけ、そのタコ糸にたくさんの針をつけたのを川に投げ込んでおくというのもありました。もちろん針には餌をつけます。夕方仕掛けて置いて朝早く引き上げにゆくとウナギがかかっているのです。もちろんナマズやスッポンもかかっていることがありました。道具は木の箱の周りに糸が入る刻みを入れて針がこんがらからないようにしています。タコ糸は渋柿の実を砕いてしばらく置いて置くと灰汁が出てきて黒くなります。その灰汁に浸けて置いて乾かしたタコ糸を使いました。本当にそれで柿渋が出来ていたかどうかわたしにはわかりませんが、教えられた通り信じて作っていました。まず、学校から帰ると、石段の下から玄関に向けてズックかばんを投げます。当時のわたしにはランドセルは買ってもらえなかったのでした。それから餌箱を持って畑へ行き、大きい方のミミズを掘り出します。それから道具箱を取りに帰り、玄関に投げて置いたズックかばんを部屋に投げ込み、玄関で針に餌をつけます。一つひとつ糸がからまないように。結構気を遣うのです。これは鉄の輪っかの方です。それからもう一つの竹串のナガセの作業にかかります。竹串の頭に切れ目を入れ、そこに3mほどのタコ糸を結わえ、その先に針をつけています。タコ糸は竹串に巻き付けています。それに餌をつけてこれは別の箱に並べて重ね入れます。わたしは30本ほど作っていました。さあ、それから川へお出かけです。竹串を川の土手に差し込み、糸を川へ投げ込みます。それから鉄の輪っかの方を川へ投げ込みます。ワクワクルンルンです。帰ると、「祖父さん、仕掛けてきたど〜」と声をかけます。すると「お〜〜ご苦労さん」と納戸から返事が聞こえます。「お〜」と答えて、飯を食って、ぐっすり眠ると翌朝早く引き上げに行くのです。不漁だったという記憶はありませんでした。

2018/04/12(木) あああの頃が朝鮮戦争だったのだ
青空をゴンゴンと唸りを上げて飛んで行く双胴のロッキードを見上げて「カッコええの〜」と友達と話し合っていたわたしたちは腰には磁石を引きずって歩くための紐をぶら下げていました。金物を拾って歩いていたのでした。金物を集めてそれを持って行くと大人が金をくれました。思えばこれがわたしたちの朝鮮戦争だったのです。朝鮮に物資を運ぶ双胴のロッキードと不足して値が高騰した鉄類を集める仕事でのわずかな小遣い稼ぎ。それでも釣り糸や釣り針を買うことは出来ました。釣り竿は竹藪へ行き、適当な大きさの奴で真っすぐくてしなりのいい竹を伐って使いました。買わなければならないのは釣り糸、釣り針、浮きを留めるゴムでしたが、ゴムが無い時には釣り糸に直接浮きをくくりつけていました。もちろん浮きは木を小刀で削って造っていました。鮒などは面白いように釣れました。餌は常時間に合うように流しの外の排水溝のところで糸ミミズや赤ミミズを飼っていました。これはハヤやモロコや小鮒などの小さい奴ようでした。大きい鮒や鯉など用には大きいミミズが必要ですが、これは畑で飼っていました。もちろんウナギ用でもありました。朝鮮戦争はこうしたわたしたちの生活するための用具購入という形でのささやかな支援ともなっていました。移動は大人の自転車を借りて使いました。思えば「学区外に行ってはダメなどという規制」などはまったくありませんでした。大人の自転車(大人はハチと言っていました)には直接乗れませんでしたからもちろん横乗りというスタイルでした。これでなんと妹尾から今の当新田や現在の児島湖やあべ池まで行っていました。アミを餌にするのですが、ママカリなどは1〜2時間でバケツ一杯ほど釣れました。こんな自然を失った今の子供たちは不幸せだとわたしは思うのですが、今の子供たちはテレビもゲームもパソコンも無かったわたしたちの方が不幸せだと思うかも知れません。ウナギに鮒に鯉、シジミにアサリにマクラ貝にカキ、ママカリにサヨリにハゼ、ギンナンに柿やイチジクなどなんでもありました。経済発展で失われたものの大きさは測り知れないと思います。誰が何と言おうとわたしはそう思うのです。

2018/04/09(月) 記憶の糸を紡ぐと・・・
わたしの幼少期の記憶はこのように少ないものの日本の歴史は大転換・大激動の時代でありました。わたしは0歳〜1歳時代は空襲下を逃げ回っていました。この頃、神風特攻隊が出陣します。しかし、米軍はサイパン島より本土爆撃をおこない、B29による空襲を本格化させていきました。1歳〜2歳時代のわたしは岡山、隠岐・知夫里島、境港、また岡山へと居所転々としましたが、この間、日本は空襲、原爆投下、ポツダム宣言の受諾、連合国総司令部の設置とマッカーサー来日、占領下での新選挙法の公布、財閥解体、第一次農地改革の指令、「アカハタ」の再刊、ヤルタ会談、ポツダム会談と目まぐるしく変遷していきました。2歳から小5までのわたしは両親の庇護の下に妹尾での暮らしは貧しいながらも落ち着いた暮らしでしたが、世の中は、天皇の人間宣言、極東軍事裁判、戦争の放棄を誓った日本国憲法の公布、第二次農地改革、教育基本法・学校教育法の公布(6・3制の教育実施)、松川事件、下山事件、三鷹事件、南北朝鮮分離独立、中華人民共和国成立などと激動の時代でもありました。そして、ソ連、中国、北朝鮮などの台頭を恐れたアメリカを中心とする連合国との間の緊張状態が続きます。こうした状況を背景に日本ではレッド・パージの開始、警察予備隊の設置、公職追放の解除(安倍総理の祖父岸信介氏も戦犯判決を逃れることになった)、そして1950(S25)年6.25日の朝鮮戦争の開始となります。朝鮮戦争も世界の覇権を争う米ソの戦いへと変貌していきます。今、思えば、朝鮮戦争の思い出が二つあります。一つは双胴のロッキード、今一つは腰にぶら下げた磁石でした。

2018/04/07(土) 博打は友人を失う結果に
わたしはパッタを使った博打に次第に熟練していった。わたしはわたしに幾つかのルールを課した。まず、相手をよくみることを第一とした。第二は、自分の手持ちの札が悪い数字の時はもう一枚引く。しかし、それでも五とか六とかより下の数字の時には賭けの枚数を少なくして賭けそのものを投げる。第三に七は悩むが(泣きと言われる由縁でもあろう)、八(オイチョ)とか、九(カブ)の時は勝負に出る。これは誰でもが同じ気持ちで勝負に出るであろう。その時、相手をよく見ていると、五より下の時にはしょげる雰囲気、六、七の時は悩む雰囲気、八や九の時には勝負に出るぞとの雰囲気が伝わってくるようになるのだ。指を動かす奴、鼻がひくひく動く奴、眉間に皺が寄る奴など特徴は人それぞれ、さまざまではあるが、わかってくるのだ。だからわたしはどんな時にもポーカーフェイスを貫く。すると、七(泣き)でも泣かないで済むのだ。オイチョやカブの時には「お前は勝てるぞ」と勝負を誘うのだ。すると、相手は勝てると踏んで賭けの枚数を増やしてくる。こうしてわたしは小学校3年生の頃には餅の代わりにパッタをぎっしり詰め込んだモロブタが幾十枚も出来上がった。弟が黙ってもちだしては負けて帰った。しかると母は「あんたはあ兄ちゃんでしょ。あんなにたくさんあるんだからええじゃろう」とわたしを叱った。わたしは内心面白くなかった。しかし、この博打の成果は思わぬ形でわたしに跳ね返ってきたのだった。担任の男先生から呼び出しを受けて注意をされた。でも、悪いとは思わなかった。ある時、鬼ごっこをしていた時に気が付くとみんながグルになってわたしだけを鬼にしたてていたことに気がついた。わたしは激怒して一人の友人を叩いたが、逃げ出したので家まで追いかけて行った。おばあさんの後ろに隠れても許さなかった。しかし・・・・・どうして・・・・・?「なぜみんながグルになってわたしをいじめたのか?いや、いじめたというよりも博打の被害者同盟を結成して、一致結束してわたしの一人勝ちに対抗したと言う方が正しいのであろう」わたしは博打が友達を無くすということをこの事件から学んだ。以後、わたしは自然と博打はやらなくなった。

2018/04/05(木) 父のビンタ
ある日のこと。わたしが先輩と賭け勝負をして負けてしまい、喧嘩になり、泣いて帰ったことがあった。当時、わたしたちはパッタと言っていたが、いわゆる関東ではメンコといわれていたやつである。表には川上哲治さんなどの野球選手の写真などが載っていて、裏には説明書きと一番下にナンバー数字が書いてあった。最初は相手のパッタをひっくり返して勝負を決めていた。そのうち、パッタの裏のその最後の数字で勝ち負けを決める博打がおこなわれるようになった。パッタを裏返して開ける前にはもう一枚引くことが出来るという大人の博打のルールと同じだ。一はインケツ、五はゴケ、八はオイチョだのと大人の受け売りをして勝負をしていたのだ。一体誰が持ち込んだのかはわからないが、五寸釘を使って遊ぶ釘倒しと一緒に流行ッていた。わたしはこのことから実に多くのことを学んだ。まず第1にわたしはそのことにのめり込む性質があるということだ。第2に相手をよく見ると言うこと。そして、第3に友人を失うということだった。その日は最初の勝負だった。わたしが持っていたパッタ数十枚を勝負に負けたのだから当然巻き上げられた。悔しくて悔しくて「ひどいじゃないか。返せ!」と言ってむしゃぶりついたが、3歳年上の先輩に突き倒された。悔しくて、悔しくて泣いて帰った。その時、父が家にいた。「男が泣くな!」と言って、ビンタを喰らい、縁側の沓脱石に投げつけられた。今度は父が怖くて怖くて縁側に置いてあったミシンの下に逃げ込んで泣いていた。しかし、誰も助けには来なかった。自分の身は自分で守る以外には方法はないのだ、と知った最初の日であった。父は戦後船乗りに復活していたようだが、いつからなのかはわたしにはわからないことであった。わたしの記憶の中では父が長期に家で暮らしていたことが2.3度ある。その際の父は怖かった。父がいる時はわたしは毎日駅まで新聞を買いに行かされた。その時にはよく母が駅近くにあった醤油屋に寄って醤油を買って来いと言われたものだった。

2018/04/04(水) 流れる血が綺麗だった
自衛隊はどうするのかって?自衛隊は地震や台風などの被害救助に備えて維持します。まさか?って時にも備えて。それじゃ防衛費がもったいないって。?いいじゃないの。米軍基地の負担(日本国民の税金で負担してんだぜ)と思いやり予算は要らなくなるから費用は随分安くなるよ。そこから先は国民の意思で決めて行けばいいと思います。さて二つ目は足を怪我した時のことです。妹尾保育園で1年保育を受けることになりました。保育園には行くのですが、なんとまあ、お昼寝の時間の嫌なことといったら。まったくお昼寝が出来ないのです。みんな寝ているのか、それとも寝た振りをしているのか。よくわからないのですが、とても静かになります。どんなに努力しても眠れません。ある日のことです。しばらく努力を続けていましたが、どうにも我慢できなくなりました。先生がいなくなった隙を狙って窓から川に飛び込みました。「アチャー」左足裏がキアッとしました。すると、水の中から赤い血がす〜〜〜と流れ出て、筋を引いてゆらゆら〜と流れていきます。わたしは少しいかれているのかも知れません。「なんて綺麗なんだろう」とその血の流れに見入っていました。本当に綺麗だったのです。足裏を怪我した原因は割れたビンでした。綺麗だったということと割れたビン以外のことは何も思い出せません。

2018/04/03(火) 真っ白なウサギ
わたしはわたしをいつから自覚したのであろう?思い返してみると小さい頃は記憶にないところの方が多いのですが、小学生になる前の記憶は三つです。一つは家から遠い方の畑で母が畑仕事をしていました。わたしは木に繋がれていました。少しばかり自由に動けるように縄で結わえられ木に繋がれていたのです。まるで犬のようです。この様子を想い出すといつもアメリカと日本のようではないかと思うのです。少しばかりの自由を得て、這いまわっているが、いつでもアメリカが縄を引っ張ると手繰り寄せられ、鞭で打たれて、言うことを聞かされる関係性と同じではないか、と。トランプ大統領が日本人や安倍総理のことを「日本の連中は薄ら笑いを浮かべて近寄ってきて利益を得てきたがそんな関係はもう終わりだ」と言いました。ということは、「お前の国はお前で護れ。出来ないのなら金と命を差し出せ。自衛隊はアメリカのために戦争させろ。取引もお前だけが儲けるのは許さんぞ」ということです。「ならば!」とわたしは思うのです。「アメリカ軍の基地は撤去しろよ。日本はどこの国とも戦争はしない国として生き抜いて見せる」と。「そんなバカなことが出来るものか}とお思いの方も多いかと思いますが、それでは「あなたはまたあの誰も責任を取らない悲惨な戦争をするのですか」とわたしは反論したいと思います。フィリピンでさえ基地撤去をさせたのですから、できないはずはありません。しかし、母に対しても誰に対しても木に繋がれた自分のことを口にしたことはありません。今、初めて文字にしました。こうして、少しばかり自由の利く縄で木に繋がれたわたしが見たものは「ウサギ」でした。真っ白なウサギが鍬を持つ母の後ろにひょこっと出てきたのです。ピンと立った耳に赤い目。一瞬、キョロっと見回します。わたしが追いかけようとしますが、縄に縛られています。その動きを察したウサギはたちまちいなくなりました。

2018/04/02(月) 妹尾の家
妹尾駅を真っすぐ西に向かって突き当りを右に折れすぐ又西に真っすぐに進むと又路地が折れ曲がります。その路地をもう二つほど折れ曲がったところにわたしたちの家がありました。その妹尾の家は狭い昔の路地から西に向くと左が畑でした。真っすぐ西に進むと石の階段があります。右手は隣の屋敷の土塀でした。イグサ製品やわら製品を下請けに作らせて各地に卸をする仕事をしていたようですが、畑の前にも工場がありました。いわゆる戦後の成金の一人だったに違いありません。女中さんが3人もいました。ある時のことでしたが、真夜中に警察が踏み込み大騒ぎになったことがありました。「博打」がおこなわれていたとのことです。左の畑の先は2軒長屋がありました。1年大きい先輩が住んでいましたが、この先輩のお母さんによく灸(やいと)を据えられました。石段を上がると2mほどの通路が左に伸びており、突き当りの山際には柿の木がありました。その手前には鳥小屋と犬小屋がありました。鳥や犬の世話はわたしの担当でした。ここは縁側でもありました。家の玄関を入ると昔ながらの農家の造りになっていました。右手と左手に8畳の部屋が一つづつ、真っすぐに行くと左手に食事をする小さな部屋、さらに進むと右手に流しや調理台など、左手に大きなかまどが二つとお風呂の焚口がありました。そこには裏口があり、裏口を右手に行くと階段があり、右手に階段を降りると大きな井戸があります。つまりわたしはこの階段を上り下りして風呂の水くみをしなければなりませんでした。この階段を上ると広場があり、神様やたくさんの木が植えられていました。左の8畳を抜けると納戸があり、母の父、わたしのおじいさんの居所がありました。その前を通り抜けると、小庭があり、左手が便所になっていました。手水鉢のある所を抜けるとお風呂でした。五右衛門風呂という鉄のお釜です。風呂の水くみ、風呂沸かし、飯炊きはわたしの役割でした。この家でわたしは小学校5年生まで暮らしたのでした。

2018/04/01(日) 妹尾の実家へ
妹尾という町は「妹尾千軒皆法華」と言われるように町民のほとんどが法華宗という町でした。冬には団扇太鼓を叩きながら「南無妙法蓮華経」と唱えながらお坊さんが歩くという寒行がおこなわれていました。この「妹尾」という町名は平家の武将であった妹尾太郎兼安が語源となっています。彼は当時、現在の総社市の高梁川にある現在の合同堰から妹尾までの12ケ郷の用水を整備し、水田耕作が可能な肥沃な土地にしました。そして、また、明治、大正、昭和の時代には興徐、藤田などの干拓事業の基地となった町でもありました。母の祖父、橋本は明治天皇、皇居を護衛する皇軍の兵士として勤務し、退役後、干拓事業を手掛けた藤田伝三郎氏の現地の取りまとめ役をしていたようです。現在の役職で言えば妹尾支店長というところでしょうか。大きな屋敷の前は秋には新米をはじめとする収穫物が山と積まれ、妹尾駅から貨物で輸送されていたようです。この大きな屋敷はわたしの記憶によればわたしが小学校3年生のころは映画館になっていました。それ以前は芝居小屋だったようです。わたしの祖祖父(母の祖父)橋本の死去後、母の父である和田が家を零落させたとはいえ、住居と畑は残っていました。映画館から10数m離れたところにあった住居は西側が裏山、前は2mほどの高さの石垣の下に畑がありました。また、10分ほど裏山を歩いて越えたところにまた別の畑がありました。母の兄弟姉妹は11人半だったといいます。男は3人のうち2人が戦死。女は3人が病死、1人は生まれてすぐに亡くなったので半だと母は言うのです。残った者は姉1人と弟1人、妹3人と母でした。姉と妹1人は嫁いでおり、弟1人は大工の見習いとして家を出ていたので、家には母の父と妹2人が残っていました。母の話しによれば、戦争中に母や妹や息子(わたしの兄)がひと月ごとに同じ窯で焼かれたのでとても辛かったと言っていました。このような妹尾の家にわたしたちはやってきたのでした。


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