たばたけんじの日記 (田畑 賢司)
元 岡山市議会議員 田畑けんじ の日々思うこと…
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2018/04/19(木) 第二のトラウマは「音楽}
小学校3年生の記憶にはボロボロの「講堂」があります。体育館がなかったので初めは跳び箱の授業に講堂を使いました。多分低学年だけだったと思います。しかし、そのうち、低学年も跳び箱を外でやるようになりました。ボロボロの講堂が体育には適さなくなったのでした。ですから、グランドの向こうではドッジボール、こちらでは跳び箱と言う具合になりました。わたしは跳び箱が得意でした。誰もが飛べない一番高い跳び箱を越えることが出来ました。それと鉄棒は得意でした。中でも、飛行機飛びという遊びでは一番遠くまで飛ぶことが出来、誰にも負けませんでした。しかし、相撲ではなかなか勝てませんでした。チビのわたしには悔しくて悔しくてならない競技でした。講堂は危険ではあるものの補修しながら使っていました。演台が南にあり、その西下にはオルガンがありました。学芸会にはこの講堂が使われました。この学芸会で担任の先生は(3年生もやっぱり女先生でした)最初わたしに木琴をやるように言いました。ですが、わが家には木琴を買うような余裕はありませんでした。なにせ母が夜なべをしてやっとこさ「肝油」が買えたのですから木琴なんて無理でした。ですからなかなか上達するはずがありません。学校にある木琴も数が少なかったものですから学校での練習もままなりません。そこで先生が今度は笛をやれと言いました。笛も買ってはもらえませんでしたから結果は同じです。そこで先生が今度は猿蟹合戦の「猿」をやれと命じました。この猿役が嫌で嫌でたまりませんでした。だって、木琴が駄目で笛が駄目でとうとう柿をぶつけられる猿役か、と思い、自尊心がとっても傷ついたのでした。しかも、学芸会の当日、来ないはずの母が見に来ていたのです。わたしは舞台に出て硬直していました。この硬直は柿をぶつけられる猿役にはぴったりだったと思われます。この話も今でこそできますが、この話はずっと胸にしまったままでした。木琴や笛が買ってもらえなかったから音楽が嫌になったとはとても母には言いにくいことでした。音楽嫌いはこのトラウマが原因でした。絵を描くことと音楽をやることを毛嫌いし、避けたことはのちのち大いに弱った結果を招くことになったのですが、この時にはそんなこと思いもよりませんでした。


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