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2018/04/01(日)
妹尾の実家へ
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妹尾という町は「妹尾千軒皆法華」と言われるように町民のほとんどが法華宗という町でした。冬には団扇太鼓を叩きながら「南無妙法蓮華経」と唱えながらお坊さんが歩くという寒行がおこなわれていました。この「妹尾」という町名は平家の武将であった妹尾太郎兼安が語源となっています。彼は当時、現在の総社市の高梁川にある現在の合同堰から妹尾までの12ケ郷の用水を整備し、水田耕作が可能な肥沃な土地にしました。そして、また、明治、大正、昭和の時代には興徐、藤田などの干拓事業の基地となった町でもありました。母の祖父、橋本は明治天皇、皇居を護衛する皇軍の兵士として勤務し、退役後、干拓事業を手掛けた藤田伝三郎氏の現地の取りまとめ役をしていたようです。現在の役職で言えば妹尾支店長というところでしょうか。大きな屋敷の前は秋には新米をはじめとする収穫物が山と積まれ、妹尾駅から貨物で輸送されていたようです。この大きな屋敷はわたしの記憶によればわたしが小学校3年生のころは映画館になっていました。それ以前は芝居小屋だったようです。わたしの祖祖父(母の祖父)橋本の死去後、母の父である和田が家を零落させたとはいえ、住居と畑は残っていました。映画館から10数m離れたところにあった住居は西側が裏山、前は2mほどの高さの石垣の下に畑がありました。また、10分ほど裏山を歩いて越えたところにまた別の畑がありました。母の兄弟姉妹は11人半だったといいます。男は3人のうち2人が戦死。女は3人が病死、1人は生まれてすぐに亡くなったので半だと母は言うのです。残った者は姉1人と弟1人、妹3人と母でした。姉と妹1人は嫁いでおり、弟1人は大工の見習いとして家を出ていたので、家には母の父と妹2人が残っていました。母の話しによれば、戦争中に母や妹や息子(わたしの兄)がひと月ごとに同じ窯で焼かれたのでとても辛かったと言っていました。このような妹尾の家にわたしたちはやってきたのでした。
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