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2018/03/27(火)
神戸を後にして
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帰岡にあたって、父は所属会社を通じて軍の許可を得、切符の手配を頼んだところ、6月28日の岡山行きが支給されたようである。軍から住まいとして許可された住居の清掃や返還。生活用品の片づけや処分。それらに伴う手続きやらそれは大変な苦労であったと思われる。高台にあった住まいは幾度もの空襲の被害には逢わなかった。これも父と母の幸運であった。28日は朝から駅に向かったが、それでも汽車に乗れたのは夕方であり、岡山駅に着いたのは夜遅くであったと言う。手荷物は油炒めに使う大きな中華鍋とその日拵えた握り飯。握り飯は中華鍋の中に入れて。後は日用雑貨や貴重品(とはいえ大したものはなかったと母は言うが、食料品であった。当時は食料品がなにより一番の貴重品であった)を入れたリュックサック。それに加えてわたしである。荷物の中で一番大変だったのはわたしであったと思われる。なにせ年齢が1年と1カ月と連れて歩くにはとても厄介な年ごろであった。わたしを背負っての旅であるからなおさらであったと思われる。「お父さん。夜も遅いし、今日はどこかに泊めてもらって奥田に行くのは明日にしましょうよ」と、相談した父と母は岡山駅前の旅館を尋ね、戸を叩き、泊めてもらったというのだ。荷も解かず、着の身着のままで寝たと言う。神戸では毎日着の身着のままで過ごさざるを得なかったのでその通りにしたというのだが、それが我々の命を助ける結果をもたらしたのである。何が幸いであるかは予測しがたいものである。
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