たばたけんじの日記 (田畑 賢司)
元 岡山市議会議員 田畑けんじ の日々思うこと…
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2018/03/26(月) 神戸大空襲のさ中に神戸へ
父が海軍の水先案内人として神戸に赴任したのは1943(昭和18)年の夏ではないかと推察される。それよりも遅かったとしても秋であろう。その頃の神戸はすでに米軍の空襲を受けていた。最初は父がまだオホーツク海の荒波に揺られていたころ、昭和17年の4月18日、東京、名古屋、四日市、神戸などが空襲の皮きりとして攻撃されたという。父、そして母がまだ首の座らないわたしを抱えて神戸に転居したのはこのような状況下であった。神戸市とその周辺地域は1945(昭和20)年1月3日から終戦までの8カ月間に大小合わせて128回の空襲を受けたという。とりわけ、2月4日の無差別焼夷弾爆撃は米軍の爆撃方針を転換するための実験であったと言われ、3月10日の東京大空襲を皮切りに都市部無差別焼夷弾爆撃が本格的におこなわれることとなった。神戸では2月4日以外にも3月17日、6月5日に焼夷弾無差別爆撃がおこなわれている。母は「焼夷弾は障子を笹箒で掃いたようなザーーザーーという大きな音をさせて降ってくるんよ。も〜〜それは怖くて怖くて」と言っていた。また「背中に背負うた子供ごと焼夷弾が突き刺さって死んどるんよ。学校の運動場や広場にはドラム缶に腕や足が投げ込まれとるし、死体を山にして焼きようるし、雨が降ったらリンが燃えて、火の玉が出るからホンマに怖かった」とも。岡山に戻ることを決意したのは6月5日の焼夷弾無差別爆撃を受けた時の際であったようだ。神戸市はこの空襲で市の全土が壊滅したという。統制もとれず、無政府状態に陥っていたことは容易に推察できる。戦災家屋14万1983戸、戦災者53万858人、死者7491人、負傷者1万7002人と記録されているようだが、誰もこの数字を信用していない。実際はさらに膨大な被害であったと推測されている。国民の財産、生命を奪った天皇も、国家も未だその償いはしていない。さて、しかし、岡山に帰るといってもこのような状況下であるから、汽車の切符もなかなか手に入らず、八方手を尽くした結果、6月28日の汽車に乗ることが出来たという。


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