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2018/03/23(金)
神戸へ
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神戸での暮らしは良かったようだ。父は徴用兵として海軍の水先案内人として軍艦や軍関係の商船などに乗り込み、タグボートに船を曳かせて、接岸させる。或いは、岸壁から航海に支障が無いところまで曳航するのが主要な任務であった。神戸の高台に一軒屋が支給されていたという。その家や庭からの眺望は素晴らしかったであろうと思われる。場所は現在の異人館があるところよりはもっと須磨寄りであったであろう。司馬遼太郎氏の筆を借りれば「淡路の島山は、ちぬの海(大阪湾)をゆったりと塞ぐようにして横たわっている」という淡路の島山に近い方であろう。食料も豊かな支給だっと聞いている。わたしの首が座らないうちに神戸に行ったと言うのであるからわたしが生まれてすぐ岡山を引き払って神戸に移住したのであろう。だがわたしの生地については2説あった。わたしが小学校5年生まで暮らした妹尾の産婆さん(時計屋のお母さん)がわたしをとりあげたと言う。逢うたびに言うのだ。「橋本のお孫さんじゃな。わたしがとりあげたんよ。覚えとる」と。母の母は橋本姓であり祖父母は妹尾では名家であったそうな。しかし、母の母である橋本小夜乃が再婚した和田久一が家を零落させたという。母の旧姓名は和田美都子である。父は田畑松一といった。もう一方の説は奥田説である。総合して判断するにわたしには奥田説が正しいと思う。奥田は借家を借りて住んでいたようだが、神戸に転居するにあたって解約して家を出たと思われる。
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