|
2018/03/22(木)
握り飯の教訓
|
|
|
開戦の翌年、1942(昭和17)年から父はオホーツク海の荒波に揉まれていたようだ。米国の戦艦や潜水艦、爆撃機や戦闘機の襲撃に肝を冷やしながらサケマス漁を続けていたところ、その翌年の1943(昭和18)年の春、とは言え、まだまだ寒くてかなわない季節に魚雷の攻撃を受け、北海の波濤の中に投げ出された。しかし、乗組員の多くは幸いにも救助された。そして、父もその中にいた。ある時の父の話だが、「けんじ!生死の境で握り飯を食う時は小さい方から取れ」と言う。(ああ、父は優しいのだ。大きい方はは仲間に譲ってやれと言うのか)とわたしは思ったがそれは早計な判断であった。飲まず食わずの救助者に出された握り飯は大小さまざまであったことが推察される。それも女性が作ったものではなく、武骨な男の手によるものであったと思われる。恐らく大きな鍋かザルなどに積み上げられていたのであろう。父が大きい奴にかぶりついている間に二個目、三個めを他の人たちが手にしていたに違いない。この話は父が他者を思いやる優しさの話ではなく。生存競争を勝ち抜くには握り飯を小さい方から早く食え、と父は言いたかったのであろう。それにしても父がわたしに話したことと言えば、(俺たちは魚雷にやられた。そして、海に投げ出された。救助された。けんじ!生死の境で握り飯を食う時は小さい方から取って食え)だけであったから小学生のわたしには何のことやらさっぱりわからなかった。こうして父は命からがら家に帰ってきたというわけである。母の話によれば、家に帰ってきた当時の父は気が狂っていたという。一例は、毎夜、近所が寝静まっている時、突如、「出ろ〜〜!出ろ〜〜!」と叫びだし、後は何を言っているのかわからないが、「出ろ〜〜!出ろ〜〜!」だけははっきり聞き取れたと言うのだ。近所の人たちが何事が起きたのか、と玄関を叩くので困ったとも。想像するに、父が船内の缶詰工場や機関室に駆け下りてそこにいる人たちに「魚雷にやられたから早く逃げろ」と叫んでいたと思われる。この先、父は神戸で海軍の徴用兵として水先案内の仕事をするようになるのだが、わたしが1944(昭和19)年5月4日生まれということを考え合わせると、わたしは父が(気がふれた)時に出来た子だということになる。わたしが少しばかり変なのはそのせいではないかと思うことがよくある。だが、父の握り飯の教訓をこれまで試せなかったのはわたしの幸せであろうと思われる。ああ、すき焼き事件には活かされていたかも知れない。この話はまた後ほど。
|
|
|