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2018/03/21(水)
船乗りの父
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自分がどこで生まれようと、今を懸命に生きている限り関係ないはずであるが、自分の一生を振り返ろうとすればやはりそこからはじめざるをえない。わたしは父の仕事の都合と戦争のせいで幼少時はかなり転々としたらしい。幼子を抱えての転居に次ぐ転居は父母にとって大変な苦労であったに違いない。ただ、わたしにはその記憶はまったくない。わたしは1944(昭和19)年5月4日生まれである。昭和天皇がはじめたあの無謀な戦争の最中である。多分間違いないのであろう。そのころ父は北の海でサケマス漁船に乗っていたらしい。その前の父は捕鯨船の乗組員として世界を回っていたようだ。捕鯨の解体には囚人が使われていたようで乗組員には銃の携帯が許されていたようだ。1941(昭和16)年の暮れに日本がパールハーバーを攻撃し、開戦となった年、最後の航海がおこなわれた。その年が捕鯨の最後の航海となったという。父の話によればサンフランシスコの港には建造中の潜水艦が数えきれないほどあり、「おい、おい、これじゃ勝てないな」と乗組員は話し合ったと言うが、もちろん国内ではそんな話はしていない。それからカナダのバンクーバーで鯨の缶詰や鯨油などを荷下ろししてから日本に帰ったという。日本に着いた途端に憲兵が「アカはおるか!?」と乗り込んできて、 船内を隈なく捜査したという。発禁本を数冊押収したというが、そう聞いただけで後はなにもわからなかったという。そしてこの捕鯨船が航空母艦として徴用となり、父はサケマス漁船に転船したというわけである。こうして父は北の海でサケマス漁をし、船内で缶詰を製造し、日本の兵隊さんに送るという仕事に従事したのであった。
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