たばたけんじの日記 (田畑 賢司)
元 岡山市議会議員 田畑けんじ の日々思うこと…
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2018/11/14(水) このままではお前は留年だぞ
15歳という年の頃は大人の真似をしたい年頃なのであろうか。まずはタバコの味を知るところから始まった。シャイなくせに妙に世の中に対して斜に構えている。青年らしく真っすぐではない。操山高校の角帽を蝋で固めて変形させている。学生服の襟フックと第一、第二ボタンをはずして歩いている。そんな変な野郎が映画館に通っていたのであるが、そんなある日のこと、担任の先生から教員室に来るようにとのお達しがあった。教員室に行くと別室へ案内された。そして「実はな、田畑。1学期及び2学期の中間テスト及び期末テストが4回とも赤点である。お前も知っているとおりだ。3学期も赤点だとお前は留年ということになる。出来れば担任の俺としては留年などしてほしくないわけだ。そこで3学期はまともに勉強してみてはくれまいか。本当は言うべきではないのだが、お前の入学試験の成績はわが校の入学生457人のうちの最後の11人のうちの一人なのだ。(つまり、447番目の最後に入学できた生徒が11人いたということである)他の生徒についてゆくのは難しいとは思うが、何とか努力してほしい」と担任はわたしに告げたのであった。そこで、「つまらない。何とつまらない、ああ、つまらない」と思っていた授業をわたしは少しばかり真剣に聞くようになった。が、まだ「一人映画部を卒業」という訳にはいかなかった。それでも授業をキチンと受けるということは大切なことである。解からないことが解かるようになるだけでも大きな前進である。こうして授業を真面目に受け始めると面白いことが判明した。どうしても英語と音楽に違和感を覚えるのだ。(外国の言葉など必要ない。音楽の先生が好きになれない)などと自分に言い聞かせるが、今思えば、それでも好きになろうという努力と勇気が欠けていただけであった。

2018/11/09(金) 1人映画部に転部
操山高校の剣道部に入って良かったことの一つは西田君と出会ったことだった。彼は勉強もよく出来た。30番以内だと聞いていたから家庭の事情が許せば東京大学か、京都大学に進学していたであろう。彼もわたしと同じくそれほど裕福な家庭ではなかった。彼は読書家でもあった。本などまともに読んだことのなかったわたしには驚きであり敬服すべきことであった。彼は「徳川家康」を呼んでいた。作者名は忘れたがいずれにしても膨大な量の本であった。わたしからすれば驚くほどの長大な小説であった。そして彼は剣道の練習も手抜きはしなかった。(弁護士をめざしていた)寡黙な彼といるとわたしの心は不思議と落ちつくのであった。1年生の頃はよく行動を共にした。そして好きになった女生徒の後をつけるなどしたこともある。その頃のわたしたちの頭の中には女性と言う特別な存在が巨大な領域を占めていたのであった。ところが、ところがである。ある日を境にわたしは「一人映画部」に転部することになってしまった。どうしてわたしという奴は一つことに捕らわれるとのめり込んでしまうのか。初志貫徹の出来ないイイカゲン野郎なのであろうか、と思う。しかし、西田君との交際を止めたわけではないもののわたしは剣道部に行かなくなった。実は、中学の同級生だった友人から映画に誘われたのがきっかけだった。日活全盛の時代である。石原裕次郎、宍戸錠、小林旭・・・などであった。それに加えて安価な映画館の「洋画」である。とうとうわたしはそちらにはまり込んでしまった。部活をさぼって帰宅部になったのではなく「一人映画部」にはまってしまったというわけである。よくもまあと思うほど映画館に通うことになった。それでいて映画監督になろうなどとは夢にも思わなかった。期間は1年生の3学期から2年生の1学期の間くらいであったろうか。しかし、二つの事件が一人映画部のわたしの軌道をまた修正させたのであった。その一つは「事実を知ることの大切さ」を教えてくれる事件であった。

2018/11/05(月) おなら
おならというものは女性にとっては特に恥ずかしいものらしい。ひと年取ると恥ずかしさは消えるようではあるものの。ある日のこと、いつものように学校から帰ると、「只今」「お帰り」といういつもの常套句が交わされる。店の6畳間には、姉(本当は叔母なのだが一緒に育てられたので姉と呼んでいる)と親戚の叔母たちとご近所さんがお一人いらっしゃった。わたしはお腹が空いていたのでうどんをいただくことにした。母の許しを得て店から茹でたうどんを一袋もらった。台所に行き、うどんを水で洗い、生醤油をかけたどんぶりを手に持って店に行くと何やらもめている。「臭!誰?誰がしたん?」と姉。異口同音に「わたしゃあ知らんよ」と他の人たち。母は何も言わずにいつものようににこにこしている。みなさんが「あんたじゃろ」「わたしじゃないわよ。あんたじゃろ」と言い合っている。そして、最後には、親戚の叔母に意見が集中した。「やっぱりあんたじゃろう」と。犯人にされた親戚の叔母はぷりぷりして「わたしじゃないのに」「また来るわ」と言って帰って行った。犯人が決まった後はまた美容院の話しやら・・・やら話題は尽きない。女性の強さはこの辺りにあるのであろうかと思われる。それはさておき女性にとっておならは特に恥ずかしいもののようだ。特に若い女性は。おならの原因は・繊維質のものをよく食べる・早食い・便秘などいろいろあるようだ。トイレで出すとすぐに後続者があると犯人が特定されるのでこれまた恥ずかしい。我慢をすればお腹が痛くなる。ガスの成分が再吸収されて血液によって運ばれ体臭や口臭が臭くなることもあるだろう。便秘になって大腸がんのリスクとなることがあるやも知れない。ならばどうする?やっぱり我慢せずトイレでこっそりする外はないのであろう。だが、みんながいる前で我慢できないこともある。この時の場合がそうである。母の様子を見ていたわたしはみんなが帰った後で母に尋ねた。「犯人はお母さんじゃろ?」母は「そうじゃ」と答えながら相変わらずにこにこしていた。みんなに犯人とは思われず、犯人が別の人に特定されても終始ニコニコしていた母は(やっぱり人が悪い人だ)と思わざるを得なかった。

2018/11/04(日) 音入れ
ある日のことである。学校から帰ると、いつものように母のところには数名の人がいた。八百屋の店を入った左手に吹き抜けの6畳間があり、冬は炬燵を、春、夏、秋は小机を置いて、接客をすると同時に会計場としていたが、そこには大抵近所の人や親戚の人たちが集っていた。いつものように「お帰り」「ああ」と挨拶をかわした。すると母が「けんじ。饅頭をお食べ」と言う。{ああ」と言って、靴を脱ぎ、座敷に上がって、饅頭をいただいていると、「けんじ。お茶が無くなったからお湯を沸かしてきてちょうだい」と母。「ああ」と返事してわたしは台所へ行き、やかんに水を入れ、お湯を、沸かした。このころは便所は外では無く店とは廊下続きの裏の家の中にあった。お風呂ももちろん家の中にあった。台所も土間ではなく板間となっていた。日米安全保障条約を岸信介が全権として調印した年(昭和35年)である。民主社会党が結成され、西尾末広氏が委員長となった。社会党が分断されてその力を半減させられたと言ってもよいだろう。そしてこの年は安保条約反対闘争も激しくなっていた。女子学生の樺美智子さんが全学連の国会突入の中で死亡した年でもありました。そして、7月には岸内閣が退陣し、池田隼人内閣が誕生しました。「貧乏人は麦飯を食え」の発言や「所得倍増計画」を打ち出したことでも彼はよく知られています。そしてまた浅沼稲次郎氏が刺殺された年でもありましたが、高校1年生のわたしはこうした社会情勢とは無縁の生活を送っていました。お湯を沸かして店にもどり、母にわたすと、母はお茶を入れ始めました。その時、「おといれを貸してください」と言って立ち上がる女性がいました。わたしは「へ〜〜。おならをするのに恥ずかしいから便所でするのか」と思いました。母は「どうぞ。奥へ入って突き当りよ」と応えました。当時のわたしは・便所・厠の知識しかありませんでした。しかも、・トイレに・おをつけることなど想像もしていませんでしたからこの「おトイレ」を「音入れ」と勘違いをしていたのでした。しかし、母はさすがです。「おトイレ」を知っていたようです。母にはおならにまつわる話がもう一つありましたが・・・。

2018/11/03(土) 柔道部への入部を断る
「オイ!田畑はおるか?田畑!?出て来い!」授業が始まって幾日か経った後のことである。上級生が4,5人わたしの教室に入ってきた。教室の他の生徒たちは驚いた顔をしている。女生徒の中には怖がっている者もいた。わたしは怪訝な思いで手を挙げた。「ちょっと出て来い」と喧嘩腰である。わたしはこの態度にむかむかしていた。「こいつらは一体何者じゃ」と思っていた。そんな気持ちは当然わたしの態度に反抗心を現していたことであろう。内心を表情に現すことは時によっては役に立つが大抵の場合は思わぬ事態を招くものだ。すると「オイ、田畑。田畑というのはお前か!?」と聞く。(なんだよ。こいつら偉そうに)とわたしは思う。チビのわたしから見ればとてつもない大男たちがわたしを見下ろしている。「ええ」と答えると「どうして、部室に来て入部を申し込まんのじゃ!?」と聞く。(ああ、こいつらは柔道部か?)とわたしはやっと気づいた。{それで?」「田畑!お前は柔道部に入れ」「・・・・・」わたしのムカムカした気持ちが反発心を呼びだしていた。入れ、入らないとのいくつかのやりとりを経た後にわたしは「入らん!」と大声で強く答えた。その後も何度か入れ、入らんとのやりとりを経た後、彼らは怒った様子で引き上げた。わたしの気持ちの中に何だか得体の知れない空白が生じていた。いずれは柔道部に籍を置こうと考えていたのに思いがけない事態で柔道部に入らないことになったのであった。(はてさてどうしたものか?彼らは善意で柔道部の入部を勧めに来たのであろうが思いも寄らないムカムカで入部を断ってしまった)。さて、ここからがわたしのイイカゲンなところであるが(まあ、しゃあないや)と気持ちを落ち着かせた。そして、内藤校長は操山高校に来たからには必ず部活をせよとおっしゃっていた。(何かはせにゃならんなあ)と思う。こうしてこの日から数日経ってからのことではあるが、剣道部に入部することにしたのであった。


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