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2017/09/01(金)
魚の小骨(34)米国にも武器輸出拒否
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今朝は素敵な秋の空。どこまでも青い空。気持ちも晴れ晴れと明るくなります。今日は防災の日ですが、防災訓練には最適な日となりました。日本の技術は戦争のためにではなく防災や医療など人々に役立つ技術開発として使ってほしいものです。ところで「なぜ日本は武器輸出を禁止しのでしょう?」「なぜ三菱が戻ってきたのでしょう?」という疑問を晴らさねばなりません。1958(昭和33)年のことです。東京タワーが完成して国民が大喜びをした年ですが、ロケットの軍事転用が国会で問題になりました。「カッパロケットが成功し、海外に輸出された。ところがユーゴスラビアでは軍事転用された。インドネシアでもその疑いが強まっている。これでは憲法で禁止する戦争加担になるのではないのか?武器輸出の禁止をすべきではないか!」というものです。開発に携わった東大・秋葉教授(当時)は「戦争なんてロクでもない。忘れちゃいけないことなんだよ」とコメントしています。この事件の議論を経て「武器輸出3原則」が国会で議決されたという訳です。次は1979(昭和54)年11月のことです。イランから大使館を通じて外務大臣に{電子部品、タイヤ等を売ってほしい」と極秘依頼があったといいます。もちろん軍用機のタイヤであり、電子部品も武器使用です。イランでは革命が成功し親米から反米に変わっていました。アメリカからの武器供与はもちろん停止されています。そこで電子部品やタイヤ等を日本に求めてきたという訳です。イランから原油の13%を依存している日本政府としてはアメリカを取るのか、それともイランに輸出かと悩んだ結果「イランに輸出しない」ことを決めたといいます。当時の日本の高官は「武器輸出3原則がなかったら断れなかった」と言います。2年後の鈴木内閣で秘書官を務めた方の証言です。ところが、この鈴木内閣当時「アメリカから武器輸出の要請があった時も紛争の拡大を理由に拒否した」と証言します。そして、何故拒否したかについて、当時の鈴木首相が「戦争が起きたらいいなあという思いを持つ日本の産業界の人をつくりたくない」と漏らしたということも。
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