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2017/08/28(月)
魚の小骨(30)戦況は神頼み!?
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戦況報告が下も嘘、上も嘘では戦況を正確に判断できないことは当然です。しかも、不利な戦況を聞きたくないというトップの姿勢は戦後の軍上層部の「物資に不足した日本が米国に負けるのは当然だった」との自己を正当化する姿勢と共通する構造的要因です。人情で作戦を認めるなどの傾向も含め、正しく認識されない戦況では作戦の立てようがありません。英軍は作戦計画を冷徹に見極め、「梅雨になって日本軍の食料が尽きた頃に戦闘開始」と立て、物資は空輸、最新の兵器を装備と万全の準備をしていました。その後の戦闘は、まさに「敵の術中にはまった」と言わざるを得ない惨敗でした。牟田口中将はビルマから作戦指揮を執っていた(そんなバカな!)のですが、いよいよ戦況が不利となり、33軍及び31軍司令官を解任(お前たちは馬鹿だ)し、やっと自らがビルマからインパールに近い前線近くのモロへと作戦本部を移しました。そこでの状況を斎藤少尉は次のように記しています。「本部前の道を初め、そこいらじゅうに兵士の死体や傷病者が転がっていました。朝は死体の片づけから始まるのですが、夜が明けると牟田口中将の祝詞で朝が始まります。祝詞の内容は戦勝祈願です。我らを勝たせたまえ!と。異様な雰囲気でした。こうして牟田口中将は武器も弾薬もない中、百mでも前に進めと命令した」というのです。31軍はほぼ全滅。33軍、15軍の兵士にも死以外に選択の余地は残されなかったというのです。およそ1万人が死亡したといいます。大本営から戦闘停止、撤退の命令が出されたのは4か月後の7月1日でした。さらに悲惨だったのは撤退でした。困難を極め、3か月以上かかったチンドウイン川と密林を英軍の追撃を受けながら撤退するのですから当然すぎるほど当然の結果でした。傷つき歩けない兵士、病気の兵士はは置いていかれました。手榴弾と爆薬が残されたといいます。自爆しろということです。帰途歩けなくなった兵士も置いていかれます。赤痢にマラリアが蔓延します。食料がなく、死んだ兵士の肉を食べ、フンドシまで剥いだといわれます。死んだ兵士の肉は物々交換されたといいます。この道は日本兵の白骨で埋め尽くされ「白骨街道」と呼ばれたといいます。生きて帰った人の証言によると「赤痢やマラリア以外にも密林の黒ヒョウやハゲタカに狙われて命を落としたといいます。ハゲタカは生きて歩いているうちは襲って来ないが倒れると襲ってくる。自殺者も大勢いた」とのことです。こうして死者が3万人を超え、撤退中の死亡者が6〜7割だと言われています。撤退には6か月以上を要したといいます。報道によれば、現地の人たちが「鉄兜や銃を遺族の人が来たら渡してあげたい」と保管してくださっているそうです。なお、70年経った今でも骨が出てくるそうです。未だに死体は放置されたままなのです。まだ戦争は終了していないのです。
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